[NO.1591] 自分がおじいさんになるということ

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自分がおじいさんになるということ
勢古浩爾
草思社
2021年12月23日 第1刷発行
228頁

定年後の老人を読者の対象としているのですよね、と確認したくなります。読んでいて「な~るほど! そうだ、そうだ」「やっぱり、それでいいんだよねえ」と、うなづかせてもらえる安心感? 困ったものです。いや、それでいいのだ! と、バカボンのパパ状態。先日、読み終わったばかりの [NO.1590] 諦念後/男の老後の大問題 と比較してしまうと、勢古さんのほうが年を重ねた分だけ、世慣れたところを感じました。逆にいえば、小田嶋隆さんが夭折してしまったような気持ちになります。還暦を過ぎた年齢なのですが。

そういえば、『年を歴た鰐の話』という絵本がありました。フランスの作家レオポルド・ショヴォーが1920年代に書いた童話を戦前に翻訳出版したのが山本夏彦さんでした。しばらくのあいだ、この人のことを思い出していました。小田嶋隆さんと勢古浩爾さんを比較したところから、なぜか山本夏彦さんのことを連想していたのでした。年を歴た勢古さん。

 ◆  ◆

勢古浩爾さんの似たようなシリーズを続けて何冊か読んだことがありました。リンク、こちら 

・定年バカ/SB新書413
・続 定年バカ/SB新書495
・定年後のリアル/草思社文庫
・さらなる定年後のリアル/草思社文庫

去年の3月のことでした。
ありゃ! 『自分がおじいさんになるということ』って、既読でした。これも同じく去年の3月に読んでいます。今さら、なにをかいわんやです。

以下は、蛇足ってことで。

 ◆  ◆

P42
「生きているだけで楽しい」は年寄りにとって盤石の土台

(あとのページでは「楽しい」を「愉しい」といい換えていました。)

勢古さんのお好きな養老孟司さんがNHKの番組で話していたという、人間の行動の動機における二つの報酬系の話からつながります。

P34
一つはドーパミンが関与する「More」(もっと)の報酬系であり、もう一つはセロトニンやオキシトシンが関与する「Here & Now」(いまここ)の報酬系である。

といいます。

P34
いまここにあるもの(こと)だけで満足し、そのことに快を感じる。

出典は、NHK-BSプレミアム『まいにち 養老先生、ときどき まる』(2021.3.13)。これは録画してありそうです。春夏秋冬シリーズでした。続編もあったような。

「もっと、もっと」と望んでばかりいる生き方では、疲れてしまいます。本書の別のページに取り上げていましたが、NHKの別番組名『世界はほしいモノにあふれてる』は、年寄りにはもう御免だということです。

P41
「More」も報酬系は「楽しいもの」である。「Here & Now」の報酬系は「愉しい
こと」である。

この部分だけを切り取ってしまっては、なんだか禅問答みたいです。勢古浩爾さんは具体例を出して説明します。

P41
わたしたちは。たとえば海外旅行やディズニーランドや高価な料理が主で、花や風や雪や月などの「自然元素」は従だと思っている。またスケートボードや野球やゴルフなどの激しい運動が主で、息をすること、モノをつかんだり、歩けること、食べることができるなどの「身体元素」は、あたりまえのことで従、だと思っている。無理もない。しかしだれの賛成も得られないだろうけれど、わたしはつねに「自然元素」と「身体元素」が最優先で、それ以外の人工的な「楽しいこと」はどんなものであれ、おまけだと思っている。

この次のところで『せかほし』こと『世界はほしいモノにあふれてる』を例に出します。

P42
モノに憑かれた人は生涯、世間が提示するものに依存して生きるしかない。とはいえ、それでいいというのもその人の人生である。

最後の「とはいえ、~」が勢古浩爾さんらしいところかな。「自然元素」「身体元素」のあたりは、なんだか池田晶子さんの書くものみたいに思えてきました。

そして結論として「生きているだけで楽しい」のだというのです。

つづいて、P48からの「思いどおりの凡庸な人生」というのは、これはもう完全に先日読んだばかりの [NO.1590] 諦念後/男の老後の大問題 に出てきた内容と一致します。びっくりです。「男がトシを取るということは、自分が積み上げてきた凡庸さと和解することだ」というのは『諦念後/男の老後の大問題』の宣伝文句です。

小田嶋隆さんは、村上龍さんが書いた『13歳のハローワーク』(幻冬舎)を引き合いに出し、望みどおりの職業に就くことが、はたしてそんなに大事なことなのか? と問います。「自己実現」なんてものは、いったいいつから重要視されるようになったんだ? とたたみかけます。

「自己実現」とセットみたいな「自分探し」なんていう言葉は、「自己責任」という嫌な言葉と同じころ、広められたように記憶しているのですが、どうでしょう。

P48
いつ頃からかこの社会は、子どもたちにやたらと「夢をもて」というようになった。スポーツマンや芸能人や教師や親から、「夢をもて」といわれて、しかも自分の夢が叶った人からは無責任に「願えば、夢は叶うぞ」と煽られる。むろん、夢をもつことは悪いことではない。そういう人はもてばいい。しかし一方では、「ウザったいな。ほっといてくれ」と思っている子どもも数多くいるはずだ。

最後の部分「ウザったいな。ほっといてくれ」という部分からあとが違うくらいで、趣旨としては基本的に小田嶋隆さんのいっていることと同じです。「自分の夢が叶った人からは無責任に「願えば、夢は叶うぞ」と煽られる。」というところが、小田嶋隆さんでは村上龍さんが書いた『13歳のハローワーク』(幻冬舎)ということになります。

勢古浩爾さんのユニークなのが、「夢をもて」という人のなかには、親や教師だけでなく「スポーツマンや芸能人」という人たちを加えたところです。いったい、いつから「アスリート(=スポーツマン)」や「アーティスト(=芸能人)」が、子どもたちに向かって「夢をもて」などと言うようになったのでしょうか。かつて大鵬幸喜や長嶋茂雄や嵐寛寿郎は子どもたちにとってのヒーローでしたが、(少なくとも)そんなことを言ったことは、一度もなかったでしょう。

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勢古浩爾さんは車はもっておられないらしい。その分、歩きます。(自転車がお好きです。)

P98
ウォーキングは「8000歩/20分」+自己流で

東京都健康長寿医療センター研究所運動科学研究室長 青栁幸利さんのいう、ウォーキングは「「8000歩/20分」がいいという説について。この話は、以前、有名になりました。

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コロナ禍で沢木耕太郎さんが実践したという話。『江戸近郊道しるべ』(村尾嘉陵著、阿部孝嗣訳/講談社学術文庫)に紹介がある歩行の記録を自分でも歩いてみたという話。沢木耕太郎さんの話の出典が珍しい。
「コロナ禍の今、旅への思い」『NHKラジオ深夜便』2021年3月号

ラジオ深夜便を聞いている人の例は読んだことがありますが、月刊誌『NHKラジオ深夜便』からの引用を目にしたのは初めてでした。

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P192
喫茶店から外を見るのが好きだ
 もし喫茶店がなかったとしたら、わたしはほとんど行くところがなくなる。しかし考えてみれば、世間のほとんどの人だって、行くところなどそうそうあるわけではなかろう。行くところがない人間は生活が貧弱で、行くところがたくさんある人間は豊かな生活を送っているといった思い込みがあるかもしれないが、なあに、だれもが五十歩百歩であろう。
 これは、友人の多い人間は人気があり、友人の少ない人間は社会的にさびしい人間だ、という思い込みに通じている。しかし近年、林修のような人が、わたしには友だちがひとりもいない、と堂々と公言するようになり、いまでは友人の多いことを自慢するような奴はただおアホ、と逆転しつつある。いいことだ。

[NO.1539] ひとりぼっちを笑うな/角川oneテーマ21(蛭子能収著)が話題になったのはいつだったか。「とかくメダカは群れたがる」と言ったのは平林たい子でした。