[NO.1590] 諦念後/男の老後の大問題

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諦念後/男の老後の大問題
小田嶋隆
亜紀書房
2022年12月28日 第1版第1刷発行
215頁

週刊ポスト2023年3月10・17日号
【書評】小田嶋隆氏が老化を生身の身体感覚で綴ったルポルタージュ『諦念後』
【評者】関川夏央(作家)

なにか妙に引っかかっていたのに、すぐにその原因がわからなくてもやもやしていました。あれま!  YAHOO!ニュースに転載された同じ記事にあった「ヤフコメ」を読み、やっと気がつきました。【書評】のなかの記述に、おかしなところがあったのです。あな、情けなし。
リンク、こちら

以下、関川夏央さんによる【書評】から、引用です。

(著者・小田嶋隆は)(一九)八八年、三十二歳で最初の本『我が心はICにあらず』(樋口一葉「我が心は石にあらず」のもじり)を書いた。

「我が心は石にあらず」は高橋和巳ですよねえ。どうして樋口一葉なんて初歩的なミスをしたのでしょうか、関川夏央さん。週刊ポストの担当者は、すでに高橋和巳なんて読んだことのない若者に切り替わったのでしょうか。

もちろん既読です。[NO.873] 我が心はICにあらず 冒頭の「パンチパーマの囁き」は、ある時期、我が心の拠り所でした。(笑)

 ◆  ◆

P95
 酒があれば、それはそれで間は持つ。
 というよりも、酒というのは、同じテーブルを囲んだ男たちを互いに直面させないために発明された装置だったりする。もう少し丁寧な言い方をすれば、同席している複数の酒飲みは、互いに向き合っているようでいていて、実のところそれぞれの酒に沈むことで間を持たせているにすぎない。
 早い話、酒さえ飲んでいれば、向かい側に座っている人間は誰であっても構わないということでもある。
 なんなら犬だって差し支えない。
「まあ、アレだ、オダジマ君。一緒に飲む液体が酒だったら、相手がどんなバカであっても苦にはならないってことだよ」
 と、ずっと昔、よく一緒に飲んだ大酒のみの先輩が言っていたものだが、たしかに酒飲みは相手を選ばない。どうせ先方の話なんか聞いちゃいないわけだし、自分は自分で飲んで好き勝手なオダをあげるだけの話だからだ。
 先輩の話はもう少し続く。
「ところが、だ、オダジマ君。一緒に囲むテーブルに並べられている飲み物がお茶だのコーヒーだのってことになると、これはもう相手がバカだと間が持たない。わかるか? たとえばの話、安倍晋三を相手に3時間コーヒーが飲めるか? ムリだろ? とてもじゃないけど話題が続かないだろ?」
 実際そのとおりだろう。だからこそ、ソフトドリンクで3時間話題が尽きない相手を「友だち」と呼ぶのだ。
 しかし、友だちの数は限られている。
 あらためて振り返るに、ひとつのテーブルをはさんで、ふたりの男が、コーヒーを飲みながら3時間、間を持たせられるだろうか? そんな友だちがわれわれにいるだろうか。
 いない。理想的な友人は、すでに死んでいる。
 これは、言葉を換えて言えば、若くして世を去った古い友人の中に理想の友情を見出そうとする欺瞞がわれわれの感傷を支えているということでもあれば、友情という心的作用自体が、そもそも未成年者の錯覚に過ぎなかったのかもしれないということでもある。
 さてしかし、そうそう酒ばかり飲んでいるわけにはいかない。このトシになると様々な事情で飲めない人間が出てくるし、それ以上に酒は予後がよろしくないからだ。
 年齢を重ねた酒飲みのうちのおよそ半数は、カラダを壊してしまっている。それで酒を飲めなくなっているのはマシな部類で、カラダを壊さずに間断なく40年以上酒を飲み続けてきた人間の多くは、酒のせいで人生を壊すことになる。つまり、無事に飲み続ける時間を積み重ねれば積み重ねるだけ、飲み方が荒(すさ)んでいく。これは、年齢を重ねた酒飲みが抱える宿命みたいなものだ。だから、複数の年寄りが酒をはさんだ時間を過ごすと悲惨な結末を迎える。

 で、われわれは麻雀をはじめる。
 大の男が議論や口論や殴り合いや殺し合いをせずに互いの時間を潰すためには、雀卓を囲むほかに方法がないからだ。
(以下略)

 ◆  ◆

P120
 なんとなれば、失敗すらも、何もしないよりは有意義だというのが、諦念者の人生における真実だからだ。何も為さずに暮らす老後は、寝たきりの麻痺過程に直結している。このことは何度強調しても足りない。私自身、親せきや先輩たちの中に、幾人もそうした一定期間の不活発の果てに死病を得た人々を見てきた。彼らを見て思うのは、老人たちが病気のために動けなくなるのではなく、むしろ、動かない生活が病気を呼び寄せるという逆順のなりゆきだ。
 そうならないためには、無意味であれ無駄足であれ悪あがきであれ、なんらかの活動をしなければならない。そういう思いもあって、これまで私は当連載の中で、いくつかの趣味やら講座モノやら娯楽やらに手を出してきたわけなのだが、今回はあえてその種のヒマつぶし目的の活動からいったん手を引くことにした。

 ◆  ◆

【重箱の隅つつくの助】

P67
 われら定年者は、自分の人生の締めくくり方を、法律的ならびに経済的および儀式的その他あらゆる側面から、万全に準備した上で旅立たなければならない。

ここは「定年者」ではなく、「諦念者」でしょう。何度も登場する「諦念者」。なにしろ、書名が「諦念後」ですから。まさかとは思いますが、校正で見過ごされてしまったのでしょうか。

 ◆  ◆

P76
 奇妙な話を持ち出して恐縮だが、結果として大卒のホワイトカラーになる人間は、さかのぼって高校に進学した時点で、すでに地域社会から追放されている。
 以下に述べる見解は、学歴差別と受け取られかねない内容を含んでいる。それゆえ慎重な言い回しが求められる。気が重い。でもまあ、とにかく書いてみることにする。書かないと先に進めないからだ。気にさわったら、やさぐれた歌でもひとつ歌って、忘れてくれ。申し訳ない。
 将来大学に進学する子供たちは、高校に入学した段階で、すでに地域に紐付いた「地元の子供」であることをやめている。彼らは、同じ地域の子供たちと一緒に遊び戯れていたこれまでの生活から離れて、同じ学力の生徒たちと同じ校舎で学ぶ大学受験予備軍の生徒として再分類されている。
 さて、昨今巷間(こうかん)で「ヤンキー論」という言い方で総称されている現代若者論ないしは集団論の多くは、実体としては「中卒高卒論」だったりする。
 どういうことなのかというと、いわゆる「ヤンキー論」が「ヤンキー」の共通項として想定している属性は、実のところ、美意識でもなければ文化意識でもなく、対人感覚や生活習慣ですらなくて、遠慮のない言い方で描写すれば、つまるとこと最終学歴としての「中卒高卒」だということだ。
 「ヤンキー」と呼ばれている人々の人となりを、その行動規範や倫理を軸に分析すれば、たしかにそれなりに面白い特徴を見いだすことができるだろうから、そうした仕事に意味がないと言うつもりはない。
 ただ、大学に進学しない組の子供たちが、一生涯地元と縁の切れない人々として成長していくことに思い至れば、その彼らの特長を羅列した結果である「ヤンキー論」が、要するに、地元の「中卒高卒者」をひっくるめて観察したフィールドワークの成果以上のものではないことがわかるはずだ。
 つまり、彼らは昔からこの国で暮らしていた集団的かつ地縁的な典型の日本人であり、人脈と礼儀と身内の絆と縄張り意識を重視する戦前からほとんど変わっていないムラ社会の住人なのである。
 対して、大学に進学する側の子供たちは、15歳の段階ですでに産業社会に属する企業戦士の仕草を身に付けている。
 大学に進学しない組の子供たちが、「オナチュウ」の絆を失うことなく、一生涯にわたって地元の市町村(ないしは公立小中学校の学区内)を基盤とする「ジモティー」の一単位として成長していくのに対して、進学校に通う高校生は、地元から離れ、新たな居場所として出身都道府県内の偏差値序列に沿って再分類され、その学力ランキングのうちの自分の学力に見合った階梯にぶら下げられる。
 で、大学に入学するとさらに広い範囲(地方的ないしは全国的な)の大学序列ランキングに着地することになる。
 誰にとっても愉快に聞こえない分類と競争の物語を長々と蒸し返しているのは、実は同窓会が、われわれ自身すっかり忘れてしまっていた分断と競争のストーリーの総集編じみた回顧イベントだからだ。

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P189
 思うに、この40年間でなにより変わったのは、制度や環境ではなくて、我ら日本人の職業観それ自体だった。
 いつの頃からなのか、わたくしども日本人にとって、働くことは、人生の目標そのものになった。自分で書いていてびっくりするのだが、本当にそうなってしまったのだ。
 その勤労神聖化思想がいよいよ極まって、
「職業こそが人間の価値を決定する試練だ」
「人間の意味は日々の労働という営みの中で生成される」
「真に働きがいのある天職にたどりついた者だけが、本当の人生の充実感を味わうことができる」
 てな調子の勤労宗教をテキスト化した自己啓発書籍の大群が書店の一番目立つ棚を占領するようになったのは、私の観察ではざっと2000年以降だった。
 同じ頃、21世紀の若者たちの職業観に巨大な影響を与えることになる一冊の書籍が出版される。村上龍氏が書いた『13歳のハローワーク』(幻冬舎)だ。この本は2013年に出版され、ベストセラーとなり、現在も書店の児童書コーナーに置かれ続けている。

小田嶋隆 on Twitter:
小田嶋隆@tako_ashi
「13歳のハローワーク」や「キッザニア」は、子供たちに「職業を通じて夢を実現する」生き方を強要しているのではないか。職業生活がそのまま夢の実現であるみたいな人間がいないとは言わないが、そういう人間は変態です。普通の人間の幸福は、単純に日々を生きていくことの中にあるものだと思う。
午前0:10 ・ 2017年7月31日

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「男がトシを取るということは、自分が積み上げてきた凡庸さと和解することだ」

ものを捨てることに強い抵抗感がある昭和生まれとしては断捨離など不可能

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初出は以下のとおり

本書は、『青春と読書』(集英社)の連載「諦念後 男の老後の大問題」(2018年7月号から2019年1月号)を1冊にまとめたものです。

「あとがきにかえて」は奥様 小田嶋美香子さんがお書きになっています。このように、お名前も公開していました。
文末には、こうありました。

「2022年11月12日 隆氏66歳の生誕記念日に」

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まだまだ、この先も小田嶋隆さんの文章を読み続けたかった。残念です。