[NO.1629] 異常性格の世界/「変わり者」と言われる人たち/創元こころ文庫

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異常性格の世界/「変わり者」と言われる人たち/創元こころ文庫
西丸四方

創元社
2016年06月20日 第1版第1刷発行
237頁

【裏表紙】
本書は、いまから60年前に書かれたものでありながら、古びることなく長年月多くの人たちに読み親しまれた。それは、人間の本質的な部分が変わらないことの証左でもあろう。
軽いものから極端なものまで、著者が描く「変わり者」のさまざまな像のどこかに、われわれは自分自身の姿を垣間見ることにもなる。そして、かならずと言っていいほど、人間の心の持つ不可思議を思わざるを得ないだろう。

P.012
 本書は、一九五五年に『異常性格の世界』という題名で《創元医学新書》の第一巻目として創元社より刊行された。以後、版刷を重ねながら、半世紀以上、多くの人びとに読み継がれた書籍を文庫化したものです。
 今回の文庫化にあたり、文字遣いを現代風に改めた箇所がありますが、著者の表現を可能なかぎり残すために、今ではあまり使われない(「精神分裂病」などの)疾患名や表現の多くを、そのままにしました。それらは本書の書かれた時代背景の中での表現であり、現代の人たちが感じるような差別的なニュアンスを含むものではないことをご理解くださるようお願いいたします。
 なお、文中〔 〕で示した箇所は、編集部で加えた注書きです。

P.009
異常性格の世界ーー「変わり者」と言われる人たち 目次

はじめに

変わり者とは何か
小心者
ふさいだひと
朗らかな人
不機嫌な人
のらくら者
熱心家
冷たい人
ひねくれ者
邪推深い人
くどい人
勘の人
うそつき
夢見る人
哲学者
おろかな人
天才
わかのわからぬ人
異常性欲者
異常性欲の諸相
漱石と藤村の異常心理分析
山頭火と大川周明ーーその精神異常と天才性
変わり者はどうしてできるのか
変わった絵

あとがき
解説「変わり者」のパノラマ図鑑 黒木俊秀

P013
【変わり者とは何か】

冒頭からつかみは万全です。著者西丸四方さんのいう変わり者とは? おそらくわれわれの周囲にいる人々の十人に一人はひどい変わり者であろうとする。全体の10%が変わり者なのです。つづけて具体例を挙げます。

・家の人の迷惑をかえりみずに競輪に夢中になったり
・代議士になって賄賂を取ったり
・社会情勢によって、あるいは右に、あるいは左に行きながら、それぞれもっともらしい理屈をつけたりする人も、
変わり者である。

・酒を飲んで乱暴をしたり、
・妾を何人も蓄えたりする人も、
変わり者である。

・人を殺したり、
・強姦をしたりするのも、
変わり者である。

あるいはまた、
・社会から退いて人の世話になりながら一生売れもしない絵を描いているのも、
・失恋して自殺を企てるのも、
・家出をして非行の群に入るのも、
変わり者である。

あるいはまた、
・貧乏しながら二十年も三十年も困苦をしのんで大発明をするのも、
・何かの思想に殉ずるのも、
変わり者である。

また
・百万円ひろって猫ばばをきめる人も、
・十円ひろって警察に届ける人も、
変わり者である。

1955年当時の具体例ですが、現在にも通じそうです。つづけて「変わり者」の対極として、今度は「普通の人」の例を挙げます。

P013
 変わり者とは普通の人間とはちがう人間である。それでは普通の人間とは何をいうのであろうか。それはわれわれの周囲に最も多く見られる、われわれもだいたいにおいてはそうであるような人間に入れられるような人間をいうのである。

定義づけとはいえ、ずいぶんくどいです。次は「普通の人」の具体例です。

P014
・学校時代には、そうできるのでもなく、そう成績が悪いのでもない。
・それから家業を継いだり、会社や工場に勤めたりして、二十歳から三十までの間に家庭を持ち、若い頃は多少進歩的思想を持ったが三十過ぎると保守的になり、四十を過ぎれば金を貯めることを考えるが、そうけちけちするわでもなく、遊ぶときには遊ぶので、思うほどには金もたまらず、若い頃読んだ西洋文学や思想の本は面倒で読めず、講談や捕物帖を読んだり、若い頃けなしていた論語とかお経に妙に感心する言葉を見つけたり、謡曲をうなったり書画骨董に凝ったりする。
このような人が普通の人である。

五十を過ぎてウェルテルに涙を流したり、ドストエフスキーを読んで徹夜をしたり、マルクス・レーニズムの議論に熱中したりするのは、普通ではない。

繰り返しますが、70年前の文章です。変わり者の例とくらべると、今の時代では、すこしピントはずれな感じがします。(私には、さほどピントはずれとも思いません)。ここで例とされる人物は、たとえばアニメのサザエさんに出てくるマスオさんあたりが想定されそうです。

 ◆ ◆

どこか、とぼけた味わいの妙味? を文章から感じられるところが、西丸四方さんの魅力でしょう。たとえば、次の例。

「熱心家」の文中では、

P055
学問的な道楽を半分ほめ半分けなしていう場合にはディレッタントという。ディレッタントの当人は得意なものである。法律家が試験管を振ってみせ、化学者が文学評論をやる。一応他人に感心される。しかしこの副業が大きな実を結ぶことはあまりない。けれども芸は身を助くで、こんな思わぬ副業が役に立つこともあるが、そのときには正業が失敗しているのであるから、あまりほめたものでもない。ただ器用な人だというだけのことである。

文章がうまい前に、はなしの展開がすでに秀でています。

Windows95が売り出される前のこと。パソコンに詳しい同僚が、「芸は身を滅ぼす」と言っていました。ワープロは一太郎が全盛、表計算ソフトはLotus 1-2-3のころです。あちこちから声を掛けられっぱなしで、本来の自分の仕事がはかどらないことを、そう表現したのです。

 ◆ ◆

P116~
【天才】
天才は知能とか才能の点で優れているということだけがちがっているのではなく、感情状態、意欲の点でも異なっている。

すばらしい創作については意欲が旺盛で、知的に優れているよりも、その熱烈な欲求が天才を生むのではないかと思われるぐらいである。すなわち天才は多くはひどい熱心家である。
天才は夢見る人である。また天才は普通の人の見いだしえないものを現実の中から見いだすのであって、勘のよい人であり、哲学者である。しかし現実を素直にとらず、変わった見方をするので、ひねくれ者である。自己の欲求の対象にばかり気持ちが向かい、他の人間には感心がないから、冷たい人である。気の向かぬときには何もしない。のらくら者であるように見えることもある。

つづけて3人の「病的な天才の例」を挙げています。一人目の早世した画家の例の印象が強いのですが、【解説「変わり者」のパノラマ図鑑(黒木秀俊)】を読んで、びっくりしたので、ここは2番目の例を引用します。

P122
 もう一人画家の病的天才がいる。

 若い娘。高校を出て一年ぐらい日本画を習ったが止めてしまった。そして二、三ヵ月家に閉じこもり、不機嫌で時に暴れたり物を投げてこわしたりした。それがやむと猛烈な制作欲が出た。妙なアブストラクトの絵が流れるように生まれ出た。三百も四百も、すらすらと絵が流れ出した。これはシャガールのまねだ、これはクレーだ、これはナギーだと批評家は言う。しかし彼女はそのような絵を見たこともない。ただ描きたいものを描いている。主としてクレーに似たようなものだが、その数百点の個展を自らやるくらいの積極性もある。体の小さな蒼白い、表情のない顔をして、黒い服で右の腕だけ赤い布でできた上着を着て、街の古本屋で買った哲学書を四、五冊かかえて歩いている。彼女の家はさいわい裕福であるのでアトリエも作ってもらった。都会の美術雑誌にも作品が載るようになった。ときどき家に閉じこもって何日か人にも会わずに描く。アトリエの中は乱雑そのものである。彼女は近頃フランス語を習い出した。家から金を出してくれるからフランスへ行きたい――習いにか――いえ、私のものを見せに。これは誇大妄想ではない。本当にパリで問題になるかもしれないのだ。
 私はこの娘の絵をある雑誌記者に紹介し、美術雑誌に出してもらうと、評判になり、パトロンが現れて個展を開き、大成功で、しばらくしてアメリカへ行くことになった。彼の地でもこの絵は好評で、変わった画家として通用するようになったところ、そのうちに麻薬や同性愛の青少年のグループに入り込み、裸の男の子の体に妙な絵を描いて、街中(まちなか)で突然素裸(すっぱだか)になるというような、集団ストリーキングのようなことをやって、新聞にも出て一挙に名が売れた。その妙な絵も人気が出て高価に売れ、美術館でも買い上げるようになった。インテリアデザインの方でも、室内、テーブル、椅子、ベッド、床、壁まで布製の原色の茸(きのこ)で一面に覆われ、茸は何千何万というくらいで、これがまた当たった。これは何を意味するのかわからなかったが、ひそかに尋(たず)ねると、これは少年のオチンチンの群で、自分が不安におそわれたときに、この茸の森の中で寝っころがると落ち着くのだとのことであった。とにかく一見すると、われわれの思いも及ばぬ、あっと思うようなもので、それでいて妙に人の心に訴えるのである。
 そのうちに自分の経験を小説に書いて一ぺんに文学新人賞をもらってしまった。クソ。ションベン、チンポコ、オマンコ、精液、少年乱交、同性愛、肛門など、汚い禁語がやたらに出てくる。全体として変態性欲の描写で、文章はまとまりがないものの、新奇な、まねのできない表現で、やはり、あっと驚いてしまうのである。この小さな、くすんだ、表情のない女性が、こんなものを書くのかと思うのである。そして自分は、この変態性欲事件に直接関与するのではなく、そういう連中を操って、傍観する処女なのである。こんな生活を三十年もしていて、若々しい処女なのである。そして、ときどき襲ってくる幻覚、不安におびえて、苦しくて、マンションの窓から飛び降りようとするが、やっとのことで抑える。薬で落ち着けると、アイディアも作品も産出されなくなる。自分でもそれが嫌で、薬を受け付けない。薬は天才を殺して、くだらない常人にしてしまうのである。死ぬほどの苦しみ、不安に悩みながら、天才的な作品を産み出して、それにやっと救いを見いだしている。茸の森にしても、不安に襲われたときに、この中でころげまわっていると不思議に落ち着くのだそうである。救いのために芸術品を発明している。ここが天才の天才たる所以(ゆえん)である。

【解説「変わり者」のパノラマ図鑑(黒木秀俊)】から
P217
 と、ここで筆を置くとしたときアメリカの有力誌、タイムが、今年の「世界で最も影響力がある一〇〇人」に芸術家の草間彌生氏を選んだことを知った。彼女こそ、本書にも引用されている天才画家の少女である(一二二頁)。やはり「変わり者」の世界は奥が深い!

 ◆ ◆

【漱石と藤村の異常心理分析】

漱石の作品をグループ分けします。
・朗らかで多弁で皮肉なもの
 『猫』『坊ちゃん』
・人生を逃避した浪漫的なもの
 『草枕』
・自然主義的なもの
 『坑夫』『三四郎』『それから』『門』
・理想的論理的なもの
 『行人』『心』
・現実的行動的なもの
 『道草』『明暗』

漱石の「神経衰弱」は、生涯で4回あったといいます。しかも9年周期で起こったのだとも。作品グループへの影響を抜きには考えられないとします。

藤村については、精神分析をやってみるとありましたが、むしろ藤村が伏せていた親族のあること二つを知れば、すんなり理解できそうな内容でしょう。

一つは、第三兄友弥は正樹の子ではなかったこと。正樹の上京中にその妻縫と馬込(島崎藤村の出生地)の稲葉屋の主人の間に生まれた子であった。

二つ目は、藤村の長兄は事業の失敗で刑を受ける身になったが、その留守中、友弥は嫂の所へ夜な夜な忍び入ろうとしたので、嫂は年端もゆかぬ娘を助けに呼んだこともあるほどであり、夫が帰ったときには気がゆるんで失神してしまったほどであった。

藤村はこれらのことを小説では公表できなかったので、読者にわかりにくい表現が生まれてしまったといいます。

【山頭火と大川周明――その精神異常と天才性】
精神異常性というよりも、二人の伝記のような内容です。

山頭火のところで紹介された「愚を守る」について、記憶に残りました。(この言葉について、知りませんでした)。

P189
「愚に生きるほかなく、愚を生かすほかなし」

孔子よ、今はお前の出る幕じゃないよ、徳も衰えたものだね、過去もだめだったが、将来も期待できないよ、政治が正しければ仕事もあろうが、不正の政治なら引っ込んで生きているだけ、何かに口を出して罰を受けてはつまらないよ、人の徳を説くとあぶないよ、愚者になりなさい、そうすれば無傷で行けますよ、有用の用ではなく、無用の用を知りなさい

P190
 隠者の荘子は言う。道の無い天下では聖人は活躍できないから生きているだけでよい。正義を説いて身を危うくしてはつまらない。そういう世の中では迷陽になって、愚者の真似をして身を全うする方がいいのだ。綺麗に飾り立てた犠牲の牛になってはつまらない、泥の中に遊んでいる亀の方がいいのだと。孔子たちは道の無い世の中を正しくしようとして失敗する。荘子たちは、道の無い世の中を正しくしようとして正面からぶつかっていっても、こちらが破れるだけなので、そういう人たちから、愚者と思われるような生き方をして、バカな狂った世の中からバカだと思われる方が、本当に目醒めた人なのだということを覚(さと)らせようとする。革命家は前者であり、隠者は後者にあたる。

上記最後の一文を踏まえると、つづく次の一文が生きてくる。

P190
 山頭火が近時におけるわが国最後の世捨人ならば、最後の革命かは大川周明(かねあき)であろうか。

大川周明については、1946年5月3日、東京裁判の法廷で東条英機の頭を叩いたことで精神異常として入院させられ、精神病のため心神喪失者として刑を免除になり、治療の結果、ほとんど全治退院したことが中心です。精神異常になった原因は脳梅毒といいます。

P196
大川周明の精神病は、むかし感染した梅毒による慢性脳炎の刑務所内での偶然の発病と見るべきで、敗戦や入獄や死刑の恐れとは何の関係もないものと考えられるが、では、いつ梅毒にかかったのかと詮索したところ、意外なことがわかってきた。大川夫人によると、(以下略)

【変わり者はどうしてできるか】

『生物から見た世界』著者ユクスキュルにある「環世界」を思わせる記述が出てきました。

P206
 しかしもっと進んで考えると、人間にしろ生物にしろ、その住む世界はありのままの世界の中に石ころのように存在するというのではなくて、自分のいる世界を作り出すというところに生物の生物たる所以(ゆえん)があるのである。人の住む世界と犬の住む世界は同一ではない。人にとっては畳であっても犬にとっては畳は地面と同じことであり、犬の世界には畳はないのである。生物はこのように世界を作り出すのであり、人にとって在るものが他の生物にもそのまま在るものではない。