風景十二 坪内祐三 扶桑社 2009年10月20日 初版第1刷発行 291頁 |
装丁/南伸坊
初出/「en-taxi」(扶桑社刊)vol.14~25
元『東京人』編集者坪内祐三さんにとっての風景を12のテーマで書いています。
駅前
図書館
階段
川
喫茶店
公園
映画館
スーパーマーケット
橋
神社
樹木
カウンター
言うまでもありませんが、東京エリアが中心です。
P211
『都市廻廊』を私は『東京人』編集者の基本図書として読んだ。
ここには、坪内さんの矜持が感じられます。
『東京人』編集者時代のはなしは、山口昌男さんつながりのエピソード群と並んで、何度も繰り返されます。
思い出つながりでいえば、本書には幼少時からのあれこれが克明につづられています。大学時代、社会人になってから(含ニート時代)はもとより、小学生のころの細々とした日常が、事細かに出てきて、その記憶の良さには感服します。まるで昭和30年代の「銀の匙」です。
『風景12』の共通テーマは「記憶の中の風景」でしょうか。
◆ ◆
P163
風景化するとは
P162
有楽座、日比谷映画、(途中略)高田馬場パール座などなど(ここに挙げた映画館はすべて今は消えてしまった)。
映画もさることながら私は映画館そのものが好きだったのだ。
そして映画館のある(映画と共生している)風景が好きだった。
だから今どきの映画館、特にシネコンというやつがどうしても好きになれない。
映画館は単に映画を上映するだけのハコではない。
その空間そのものが風景であり、さらにはそういう空間を持った建物が街の中で風景化しているから素晴らしいのだ。心ときめくのだ。
P210
『帝都物語』の中で、日本橋の城門中央の橋脚に背中合わせに座っている二匹の麒麟が東京の守り神として描かれている。
これは長谷川堯の名著『都市廻廊』にインスパイアされて創案されたものだろう。
『都市廻廊』を私は『東京人』編集者の基本図書として読んだ。
日本橋を設計した妻木頼黄は江戸の幕臣の血筋つまり明治維新の"負け派"だった。
かつて江戸は「水の都」と言われていた。それを「陸の東京」に変えようとしたのが明治の新しい権力者だった。妻木はそれに密かに抵抗しようとしたと長谷川堯は言う。つまり妻木は、橋の上からではなく下からの風景を意識して日本橋をデザインしたのだ。
(坪内祐三による『都市廻廊』からの引用)
もしかりに、妻木にこのような隠された意図があったことを疑うものがあれば、明日にでも日本橋へ出かけていって、橋の上からではなしに(「橋の上からではなしに」に傍点)、舟かボート、少なくとも土手にしゃがむなりして、この橋を眺めてみればただちにその疑念を晴らすだろう。/巨大な石の鳥がゆったりと羽根をひろげて大地へおり立つ瞬間のような姿を持つ橋の側面は、一つの橋脚を中心に浅い弧を描いて飛んだアーチが優雅であり、「ルネッサンス式」とはいうが橋台や起拱線部はむしろネオ・バロックともみえて流麗である。/私たちがたとえばヴェネツィアの街でするように、この橋にむかって東京湾の方から(あるいは逆に内堀の方から)船で近づいていったとしたら、それは妻木頼黄という異教を憧憬する中世主義者の情念の中に綿密に構築された秘密都市の栄光の都市門のようなものとして、眼前にまばゆく立ちあらわれてくるにちがいない。その時に二つの口をもつこの城門の中央を見よ。そこには橋脚にブロンズの高い装飾電柱が立ち、両側に東洋の中世特有の幻想的動物麒麟が、おそろしい形相で背中あわせにすわってガードしているのが見えるだろう。
P212
この一節を目にした後、日本橋に出かけ、土手にしゃがんで橋を見た。長谷川堯の言う通りだった。
今までと違う本当の日本橋の風景を知った。
◆ ◆
坪ちゃんの前妻について
本書を読む限り、環七沿いのマンションに20年住んだらしい。マンションの向かいには駒留八幡神社がある。そこでの秋祭りのはなしとからめて......。こんなに具体的な記述は珍しいのでは?
P239
このマンションに住み始めた頃、当時付き合っていた恋人とその秋祭りに出かけた。
(途中略)
翌年の同じ頃、婚約破棄を決めた私は、マンションの部屋で一人、祭りの音を聴いていた。会社もやめてしまったし、一体自分はこの先どうなるのだろうかと思いながら。
三年後私は久し振りでその秋祭りを訪れた。健啖家の妻に付き合って焼き鳥、おでん、そしてお好み焼きまで食べた。
その妻に逃げられたあとで恋人と秋祭りに行ったのはさらにその四年後だろうか。
駒留八幡神社の秋祭りに行ったのはその三回だけだ。
→上記の説明の前にも、三軒茶屋駅のはなしのところで、こんな記述があって、目を引きました。
P22
駅前再開発が本格化し、パン屋が消え、新省堂は移転し、踏み切りの手前に世田谷線の三軒茶屋の仮駅が出来た。
三軒茶屋の駅前が見なれない町になっていった。
かつての駅や不二家や新省堂のあった場所に大きなビルが建てられていった。
その大きなビル、キャロットタワーが完成した頃、私は,妻に逃げられ、一人暮らしだった。
◆ ◆
上記記述のついでに
P22
ポストモダンという時代も悪くはないなと私は思う。
植草甚一を、あるいは少年時代の私を、乗せた経堂発のバスは渋谷駅南口に到着する。
渋谷駅南口の風景はその頃からあまり変(ママ)らない。
東急東横店、東急プラザ、巨大な歩道橋、そしてバスのターミナル。皆、当時のままだ。
→ 今現在の渋谷駅南口を見たら、何と思うことやら。
◆ ◆
テーマ「樹木」の最後が、以下のものでした。
P265
一九九〇年秋、私は、何の将来のアテもなく『東京人』編集部をやめ、またニートな青年に戻った。
時間はたっぷりとあったから、色々な所に出かけた。
そのひとつに駒場の東京都近代文学博物館があった。
日本近代文学館の先にあるこの東京都近代文学博物館を、学生時代、N君と共に訪れたことがあったが、展示物を含めて、かなりショボイ文学館だったという記憶があった。
しかしどうやらそれは仮設の時で、旧前田伯爵邸を利用したその文学館はとても充実した施設だった。
展示内容もさることながら、内装もゴージャスだった。
旧朝香宮邸を利用した庭園美術館のアールデコの内装も素敵だが、東京都近代文学博物館のそれは、ただ見るだけのものではなく、例えば休息コーナーとしてそのソファーを利用することも出来たのだ(しかも入館料は無料だ)。
その休息コーナーはゆったりとしたスペースで、ここは打ち合わせに使えるな(しかし今さら誰と?)と私は思ったりした。
もう一つその文学館には楽しみがあった。
建物の正面に大きな木があり(木の種類は思い出せない)、その木には野生のリスがいて、素晴らしいスピードで木を駆け上って行くのだ。
いつ行ってもリスはいた。そのリスを見るのが私の楽しみだった。
最後にあの場所を訪れてから十年以上経つが(その間に近代文学博物館は閉館になった)、あの大木にリスはまだいるのだろうか。
→ 2018年11月28日訪問したときには、リスは見かけませんでした。かつて、1970年代に行ったときは、どうだったでしょうか。ただ、記憶というのはあてにならないもので、いったいどうして、ここにはリスが元気にいるのだろう? と不思議に思ったことがあります。それが、どうもこの地だったような。
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山口昌男さんつながり、テーマ「テーブル」のところで栗本慎一郎さん登場。こんな本を紹介しています。
『東京の血は、どおーんと騒ぐ――冒険者たちの黙示録』1983年、Century press 栗本慎一郎著
別バージョンで
角川文庫 緑567-2 1985.5
P276
ニューアカデミズム いわゆるニューアカがブームとなっていた時代の、一種の奇書と言える長篇エッセイに栗本慎一郎の『東京の血は、どおーんと騒ぐ』(情報センター出版局・一九八三年)がある。
私が最初に「火の子」のことを知ったのはこの本によってだ。
実名や変名あるいはイニシャルが入りまじるそのフィクションで、「火の子」は「火の実」として登場する。
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