サンショウウオの四十九日/朝比奈秋

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サンショウウオの四十九日[二一〇枚]/朝比奈 秋
新潮/2024年5月号/第121巻第5号

きっかけ

先日(振り返ると7月17日水曜でした)ラジオ番組で、松江松恋さんが芥川賞候補の5作品について話していました。そういえば、この日が両賞発表でした。耳をそばだてていると、面白そうな小説がありました。(なにしろ手練れの書評家松江松恋さんによる紹介です。)

それが本作でした。

ちなみに、番組について。
Tokyofm ONE MORNING
8:38~
ワンモーニング・ピックアップ
ゲストに 書評家の 杉江松恋 さん
今日、受賞作が発表される「第171回 芥川賞」候補5作について解説、受賞作の予想。

さっそく読みたいので、どうしたらいいか。検索すると近所の図書館に貸し出されていない(予約も入っていない)初出誌のあることが判明、あわててリクエストしました。受賞発表前でしたから、できたのでしょう。その後、新潮社から7月12日に単行本で発売されました。

 ◆ ◆

純文学よりもSF小説として読みました。たとえばスタニスワフ・レムの『ソラリス』のような。SFのなかの実験小説です。if(もしも)~だったなら、という仮定をふくらませ、するとその先はどうなるだろう? という小説。

【以降ネタバレ】
本作でいえば、主人公が結合双生児であるという設定です。一人分(一つ)の身体でありながら、正面から見ると中心線に沿って、左右で二人。相貌も違いながら、中心で左右違います。頭部は一つでありながら脳も左右に二つあるので、人格も二人である。しかし、まったく共有するところがないともいえない。二人は互いの思考を読み合うこともできる。とすると、どうなる?
結合双生児として生まれた世界の実例を踏まえて、仮定がふくらみます。紹介された名前をネット検索するまでは、ベトちゃん・ドクちゃんのほか、知りませんでした。

と、同時に、主人公の成長過程の回想が挿入され、ふくらみに奥行きをもたされます。主人公の父親若彦が胎児内胎児として伯父勝彦の体内から生まれたというのも伏線にありました。

本作の大きな特徴が、主人公(杏と瞬)の二人による語り手の入れ替えです。表記上では、「杏=私」、「瞬=わたし」と使い分けがあることに、途中で気がついて、あわてて読み返しました。それでも混乱があり、2度目に読むときは、メモをとりました。二人が脳内で会話を交わしているとき、メインの語り手はどっちなのか、探しました。主導権の取り合いみたいな場面もあります。小説での「語り手・話者・視点」なんてことも、あらためて考えます。そもそも一人称なのか、二人称なのか、笑ってしまいます。そういうことでは、筒井康隆風メタ小説です。

とぼけた味の父親のキャラクターやユーモラスな表現によって、シリアスな内容を緩和させようとしているのでしょう。勝彦の葬儀と四十九日の両方ともに若彦が遅刻してくるというのはなんだかなあでした。登場後の失笑を買うところ、コントです。昔の人なら、「これじゃあ、まるでまんがだ!」とでも言うところ。たとえば、ドラマ『相棒』の内村刑事部長が苦虫をかみつぶしたような表情で。

 ◆ ◆

登場人物
・主人公 濱岸杏(姉)・瞬(妹)
 現在29歳、パン工場で検品のパート勤め
 藤沢のワンルームマンションで一人暮らし
・父 濱岸若彦
 50代 会社員営業職
・母 パート勤め
 父母は平塚の住宅住まい(主人公の実家)

・伯父 濱岸勝彦(かっちゃん)
 岡山の大学教授 哲学
 この伯父から父若彦が胎内胎児として生まれた
・伯母 濱岸美和
・いとこ 彩花
・その夫 克樹

・祖父(父方)濱岸達治
 現在は車椅子
・祖母(父方)濱岸津和子

・祖母(母方)トシ


場面構成

【1】1日目 昼ころ
   語り手:杏(表記=私)
   場所:主人公の実家 平塚市
   いつ:2月(のある日)、昼ころ

   数か月ぶりに帰った主人公。母がパートに出るのを見送る。父はまだ寝入っている。
   10年前に、父が自分の生まれたときのことを話したのを思い出す。1968年のこと(?)。胎児内胎児だった。
→ ここもまた、疑問でした。若彦の出生届を出しに行ったとき、役所で言われたのが「68年」「69年」という数字です。初読のときには、ぎょっとしました。役所の書類に西暦ってあるのか? 元号を記入するのが当たり前でしょう。あれこれ考えた末にたどり着いたのが、読者に誤解を生じさせないため、こんな表記を作者は採用したのだろうという考察でした。ふたつの西暦年を口にするとき、下二桁だけを言いますから。素直に読めば、きっと、それでいいのでしょう。歳を計算してしまいましたよ。1968年生まれなら、現在56歳。29歳の子がいるなら、27歳のときの子。それならありそうか、とか。
  白状すると、最初は、昭和68年かとも思いました。もちろん、そんな年は存在しませんから、それならもしかするとアニメであるようなパラレルワールドの「並行世界」なのか? とか。まだ、初読のときでしたから、そんな設定なら胎児内胎児で兄から生まれた弟が父で、その娘が結合双生児であっても、そうはおかしくないか、とかです。

   主人公が昼食を簡単にったあと、藤沢のマンションまで父に車で送ってもらう。

P.17(下) 私がオムレツの皿を持つと瞬はオムライスのほうを持って、
→ ふたりの主人公がいることを提示

P.18(上) *(アスタリスク)
    語り手:瞬(表記=わたし)
    場所:父の車のなか

P.18(下) まだ暖房で暖まりきらない車内の寒さにまいって、わたしが右手をポケットに突っこむと、杏は懐かしい景色の空気を吸いたくなって助手席の窓を少しおろす。
      (略)
      父の提案にわたしも杏も少し戸惑った。

   場所:主人公のマンション自室

   父と別れ、マンション自室へ。シャワーを浴びる。

   伯父勝彦と父若彦出生時のことを思い浮かべる。
   回想しているのは杏(表記=私)

P.20(上) シャワーで体が温まっても、頭の集中だけはまだとけない。杏が伯父のことを考えこんでいるのだ。

   杏(表記=私)の回想が終わる。
   語り手:瞬(表記=わたし

→ ここではじめて主人公が結合双生児であることを、作者から読者へ紹介される。
P.21(上) 鏡にはたった一体の人間が映っている。一隊だけど一人ではない。(略)双子の姉妹ではあるが伯父と父以上に全てがくっついて生まれ落ちて、そして、今もくっついている結合双生児だから、(以下略)

P.21(下) 頭も体も洗い終えても、杏は考え事を続けている。今日はわたしが体を拭いて、頭を乾かすしかないと諦めたところで、杏は手を伸ばして(以下略)


P.21(下) *(アスタリスク)
    語り手:杏(表記=私)
    場所:バスタブのなか

    作者から結合双生児であることが明かされたあと、杏の回想として主人公のこれまでと現状について説明される。
    五歳の秋、はじめて二人であることが周囲から認められた。新たに瞬(妹)の出生届が出された。

P.22(上) 今でも初対面の人は、私たちの顔を見た時、面長の左顔と丸い右顔がくっついたものとは思わない。
P.23(上) 右半身には瞬、左半身には杏と名前が

P.24(上) 一行空き
     バスタブの中での杏の回想が終わる。

     (サイドビジネスにしている)ネイルチップを一つ完成させたところで、母から電話で伯父勝彦が亡くなったことを知らされる。
     朝目覚める。


【2】2日目
   語り手:瞬(表記=わたし)
   場所:工場、ロッカー室
   いつ:朝

   パートの谷口さん、島田さんと話しながら、昨晩を思い返す。
   伯父の訃報を聞いた途端に、杏はパニックを起こした。
   睡眠導入剤で無理矢理寝かしつけたので、今朝の杏はずっとうわの空。

→ 結合双生児としての説明を周囲にはしていないことについて。
P.27(下) 大学を卒業した後で知り合った人には何の説明もしていない。(略)この職場では濱岸瞬で就職したから杏は存在しない。ぶつぶつと独り言の多い、特殊な顔貌をした、たった一人の二十九歳だ。

   瞬の回想。結合双生児として、学生時代から現在までを紹介する。


   語り手:瞬(表記=わたし)
   場所:工場からマンションへ帰宅途上
   いつ:夕方

   杏が脳内で思考を繰り広げる。
    結合双生児について、タチアナ・クリスタ姉妹について

→ 杏の暴走する思考を扱いかねる瞬を表現する手立て(?)としてなのか、文法が乱れた(ねじれた?)表記2ヵ所。
P.31(上) そこから杏は首を傾げて、歴史的に人間に対する理解は、時に特殊な身体状況下にある人間から学ぶことで深まっていった。
P.32(下)「もう、いい加減にして。ね?」
      声に出して頼むと杏は黙って頷き、この二人の結合双生児がどのように感覚や思考、行動を共有しているのか、神経学的な見地から説明できることがあります。

   意識、思考、人格、感情について。本作のテーマ。
P33(下) 生まれてからずっと思考や感情が共有され続けるなかで、どうして独立した意識と人格が保っていられるんでしょうか。それとも意識は思考や感情とはまったく別のものなんでしょうか。それなら、意識は一体、脳のどこにあるんでしょう?

P.33(下) 昔読んだ哲学書だったり、科学書だったり、テレビ番組による結合双生児の特集、それに杏がこの体でもって築きあげた自分ながらの概念、(略)

   【杏の思考→本作のテーマ】を聞かされている語り手=瞬(表記=わたし)=読者
   意識はすべての臓器から独立している。(「意識はすべての臓器から独立している」に傍点)。

P34(上) 意識がすべての臓器から独立しているのは当たり前だ。脳を共有して考えようが、胸の高鳴りを同時に感じようが、空っぽの胃に片方が食べ物を放りこんで食欲を満たしてくれようが、二人の意識は混じらない。個別に同時に体験しているだけだ。意識はすべての臓器から独立している、と初めて読んだ時も驚くことはなく、この世の中に自分たちをわかってくれる人がいたと喜んだのを覚えている。しかし、一つの意識で一つの体を独占している人たちにはそれがわからない。思考は自分で、気持ちも自分、体もその感覚も自分そのものであると勘違いしている。自分の気持ちが一番、なんていう言葉を聞くたびにニヤニヤと含み笑いをしてしまう。単生児(「単生児」に傍点)は自分だけで一つの体、骨、内臓を保有していて思考や気持ちを独占する代わりに、その独占性に意識が制限されている。いや、意識を制限しているのは、この思考や気持ちは分のものだという傲慢さによるものだ。自分の体は他人のものでは決してないが、同じくらい自分のものでもない。思考も記憶も感情もそうだ。そんなあたりまえのことが、単生児たちには自分の身体でもって体験できないから、わからない。(略)
デカルトの「我思うゆえに我あり」な人たち、つまりは脳が、思考が、自らの意識を作り出していると考える医者や化学者たちがどれだけ結合双生児の研究を進めようとも、たどりつく結論は一つで、主観性を省いて客観性のみで証明する科学論文で双生児たち二人の思考が主観と客観を越えて統合されていると証明することになる。(略)

P.34(下) 〈単生児〉という杏の言葉遣いに、わたしは背筋がぞっとする。この子は自分が結合双生児であることにどこか優越感を抱いているのであろうか。

P.35(上) 体も心も疲れ切っているのに、杏に引っぱられているせいで頭だけが異常にうごいている。(略)
      医者たちがどれだけ脳を研究しても意識は見つからないだろう。意識は脳にない。意識の反映が脳に活動となって顕れるだけだ。意識はどこからも独立している。タチアナとクリスタの意識は脳からも互いからも完全に独立している。思考や感覚が混じっても、意識が混じることはない。人間存在は内臓や心身のすべてを超越している!


P.35(下) 杏の思考、終わる。語り手:瞬(表記=わたし)

      杏を寝かしつけて、(瞬)はベッドにもぐりこむ。
      瞬の思考がはじまる。

      小学生のとき、文通の思い出。

      瞬の意識が、母からの携帯メール着信音で覚醒する。


【3】3日目の朝
   語り手:杏(表記=私)
   場所:岡山駅前
   いつ:昼ころ

   母と主人公が新幹線から降りると、いとこ彩花とその夫克樹が迎えにきていた。

   葬儀場着
   祖父、祖母、伯父の妻美和さんが待っていた。他に親戚たち。

   僧侶の読経がはじまる。
   主人公の父若彦は、昨日から名古屋で営業(の仕事)があり、それを午前で切り上げ、そのまま車で来る予定なのだが、読経に間に合わない。

   火葬場に全員で移動、炉の前に(棺の乗った)台車が止まり、焼かれる寸前で、やっと父若彦が到着した。しかし、時間が過ぎており、棺の蓋は開けられずに対面もできないままに炉に入れられてしまう。
   若彦の呑気な人柄。おとぼけなやりとり。

   焼き上がるのを待つ間。
   待合ホール革張りソファの上。
   語り手:杏=わたしのまま。

   ウトウト、回想、高1のとき

   (杏の)回想
   高1、校外実習、平塚の世界の民族が展示された博物館で
   白髪の館長の説明のなか
    シンボル、陰陽図、白と黒で構成されている
    白と黒の勾玉が追いかけっこしたような配置になっている
    別名、陰陽魚

P44(下)「陰陽魚という別名もあって、たしかに二匹の魚のようにも見えますね」
     そう言われて陰陽図を見つめてみると、魚というよりはオオサンショウウオに見えてくる。黒いオオサンショウウオが一匹、白いオオサンショウウオが一匹。
    「白の頭部の中心には黒い点が、黒の頭部の中心には白の点があるでしょう。陽中陰、陰中陽とそれぞれ呼ばれていて、陽極まれば陰となり、陰極まれば陽となる、を表していて、対極はその果てで反転して循環するという意味であります。また白と黒がこのように、お互いの陣地に攻めいりつつ一つの円を成しているのは相補相克を表現しております。(略)

P.45(上・下) 続けて館長がスライドで見せた絵
   ・目をむ【「む」旧字体】いた大男が二人向き合っていて、相手の心臓を直に掴み合っている
   ・古代メキシコのもの

   その日も帰宅後、瞬はこんこんと寝た。

   (杏が)一人で宿題を済ませてベッドに入った時、あのゴロテスクな心臓を揉みあう男性たちが思い出された。

P.45(下) 一人が活動的に相手の心臓を揉めば、揉まれたほうも活発になって心臓を揉み返す。逆も然り。その説明が頭の中で巡っては、私と瞬は白と黒のサンショウウオになった。互いの尻尾をたべようと、追いかける二匹のサンショウウオ。

P.46(上) そもそも交代せずに在り続けられる二つの人格は、やはり二重人格ではなく、どちらかというと独立した平行人格、あるいは同時人格だった。ただ、独立しているようで、音叉みたいに二本にみえて実は根元で繋がっていると思うと怖かった。

   高校時代の回想
    進路選択、看護に決めた

   焼き上がり、「骨拾い」が始まる
   語り手:杏=わたしのまま

   伯父の骨が回ってきたら指の骨だった
P.50(下) 箸で挟もうとした時、私に白黒サンショウウオの感覚が蘇った。私は伯父の骨を受けそこなって、指の骨は台に落ちた。たしかに伯父も父も白黒サンショウウオだと納得して、カランと転がった骨を箸で追いかけようとした時に、瞬が右手を伸ばして骨をじかにつかんだ。瞬が握りしめた骨はほのかに温かく、少しざらついた感触がする。(略)
      瞳を輝かせているうちに、私はとうとう自覚した。自分と瞬のように父と伯父は深くで繋がっていて、いつか同時に死ぬ、私はきっとそう思いこんでいた。昔のいろいろを猛烈な速度で思い出すことになったのは、二人が同時に死ななかったことの衝撃によるものだった。


P.51(上) *(アスタリスク)

   岡山から乗った新幹線車中
   語り手:瞬(表記=わたし)

   瞬が骨拾いの時のことを思い返す。
   杏が夢をみる。終わって、今度は瞬が夢をみる。


【4】勝彦伯父の49日の日
   語り手:杏(表記=私)
   場所:墓地

   母と主人公とで伯父・父の生まれた実家の墓地に向かう。
   実家は京都駅から在来線で1時間の県境

   祖父母
   伯父の妻美和
   いとこ彩花
   その夫克樹

   主人公と母
   主人公の父若彦、またもや間に合わない(静岡で仕事終えてから来る予定)

   僧侶の読経が済んでも間に合わないので、納骨のために明日ふたたび集まることに。

   美和と彩花は京都駅前のホテルへ。克樹は仕事のため新幹線へ。
   祖父母と母と主人公は京都の実家へタクシーで向かう。


   伯父と父の実家、2階の部屋
   語り手:瞬(表記=わたし)

   伯父の残した蔵書を瞬と杏の二人で見る
    純粋理性批判/善の研究/生きるよすがとしての神話/量子力学序論/量子と精神医学

   〈量子力学 巨視的世界における実在性と非実在性〉
     表紙には波動方程式がいくつも並んでいる。杏はぱらぱらとページをめくっては、伯父が線を引いた箇所や針金のような書きこみ文字だけを拾って読む。量子のもつれ、実在性の破れ、巨視的世界における非実在性の成立、レゲット・ガーグ不等式、ハイゼンベルクの選択、重ね合わせ。(略)

   〈腎臓内科専門医が説明する腎臓病〉

   祖母が呼びに上がってくる。喉風邪を意識する。夕食後、2階の部屋へ戻る。


P.60(上) わたしだけが寝てしまって、杏は起きて本を読み続けている。では、それをみているわたしは誰なのか。それとも、わたしは寝入って、杏が本を読んでいる夢を見ているのか。
→ まるで落語「粗忽長屋」です。


P.60(下)  生まれてから五歳まで、わたしは一言も話すことができなくて、回りはわたしの存在に気がつかなかった。
→ 初めて言葉を話す場面は、ヘレン・ケラーが水の存在に気づき、指文字でウォーターと綴ったところを思い浮かべました。作者も同じだったのでは?
P.72(上)「まえかや、ざいがに」


P61(上) あんちゃん、あんちゃん
     呼び声が聞こえてきて、すぐに誰が読んでいるかわかる。わたしを見つめながら、わたしを杏ちゃんと呼ぶのはたった一人だけだ。

→ ここからはじまるのは、秀逸、名場面です。井上靖の描く、おぬい婆さんと少年とのやりとりみたいです。ましてやこちらのトシさんは認知症がはじまっていたといいますので、いっそう愛おしさが増します。

P61(上)「あんちゃん、やめやい」
      わたしの存在を知らないことをいいことに何度も悪戯(いたずら)する。

「わたしを見つめながら、わたしを杏ちゃんと呼ぶ」トシお婆ちゃん。つまり杏ともう一人、そこに存在する「わたし=瞬」のことをどうやら発見している、たった一人のトシさん。でも、認知症がはじまっているからこそなのか(だから見つけることができた?)、それがもう一人の孫であるとはわかりません。


P.64(下) わたしが五歳で見つけ出され自分に名前がついた時には、完全に呆けてしまっていたから、祖母が生涯わたしを瞬と呼ぶことはなかった。そんなことは別にどうでもよかった。あの夜、祖母の脇に手を突っこんだのは杏ではなかった。祖母がまん丸い目で見つめていたのはわたしだった。
→ 中学に上がる前、両親に内緒でトシさんに会いに施設へ行った出来事は、忘れられません。ザリガニ云々と場面よりも、印象深く残っています。そして、ここ(上記)へつながるのです。「祖母がまん丸い目で見つめていたのはわたしだった」


語り手の交代 瞬=わたし → 杏=私
場所は同じく2階の部屋のまま
P.66(上) いつからか瞬は深く眠りはじめている。

水を飲みに階下へ降りると、泥棒と見まごう(ずぶ濡れの)父が家に入ってくる。
相変わらず、おとぼけな父

二階へ戻る杏(瞬は寝たまま)
ここから杏のモノローグ
瞬がみんなに認識されたときのこと

幼稚園の芋ほり 五歳
幼稚園の裏手の畑 一人で裏山の獣道を進む
池 手にした棒の先にザリガニ

P72.(上) その瞬間、いると感じた。ザリガニと同じくらいいると確信できた。
      そして、喉が震えて、
     「まえかや、ざいがに」
      口が勝手に動いて言葉になる。自分の口から自分以外の声が出たことに驚きはなかった。言葉になった次の瞬間には、自分の半分を手放していた。

語り手の交代 杏=私 → 瞬=わたし
P.72(下) 瞼が開くとたった今、生まれた心地がする。陽に転じて、陰に転じて、とうとうぐるりと循環した。見覚えのない天井を見つめていると、わたしは新たな生を受けて生まれ変わったのだとわかった。

P.73(上) 杏を起こそうと思った。(略)この子の扁桃炎に付き合いきれない、と呆れている具合にも感じられて、起こすのをやめた。わたしはもう少し大人にならなければならない。

喉の腫れを感じながら、階下へ向かう。
祖母、母、父等の連携プレーで、病院へ行くことになる。
父の運転する車で、早朝の空いた道路を市民病院へ向かうところで最後は終わる。

車中で、杏は自分たちの子どもらによって納骨されることを想像する。納骨室に骨壺を置くと隣には父と伯父のものが並んでいる。墓に蓋をすると、真っ暗となり、そこからまた何十年も百年も一緒に過ごす。どの骨壺もそこでは内臓の一つに過ぎない。いつか百年後の子孫に土に返されるまで、まだ永い。

→ 藤枝静男のぶっとんだ私小説を思い浮かべます。墓石下の納骨室で、先に逝った家族が正座して、「ようきたな」と自分のことを迎えてくれるところとか。ただし、最後の一文は、とってつけたみたい。

P.74(下) そんな想像に朝の空気がことさら鮮やかに匂ってきて、わたしもまた安らいでくる。

 ◆ ◆

【蛇足】
ここで元も子もないことを言ってしまえば、何年後になるかわかりませんが、今でさえ、「墓じまい」がずいぶん言われて久しいのに、子どものいないであろう(養子を迎えることもないわけではないけれど)主人公の骨壺は、いったい誰が納骨するというのでしょうか。(出川哲朗のいうリアルな、身も蓋もない話として)。主人公の父母の墓は別に新規購入されてはおらず、京都の墓にみんな一緒ということで、いいのかな? いとこの彩花さんはお嫁にいってるのだから、自分の母美和さんの葬儀(まで)は彼女が執り行うとしても、父勝彦の弟若彦の家の分までも、彩花さんがやってくれるのでしょうか? たいへんだな。そのころには、彩花さんだって老人になっているだろうし。高齢者である身は、つい余計なことを考えてしまいます。ここで(朝の空気に)安らげる気分にはならないかな。(年寄りの戯言、老婆心です)。
ま、杏は自分たちの子どもらによって納骨されることを想像する(した)のですから、いずれにせよ、そんなことは、ちっともかまいませんですね。


ところで主人公のお母さん、お名前はなんでしたっけ?


【追記】
小説での「視点」について、鴻巣友季子さんが詳しく解説していました。ネット上の記事、「好書好日」です。リンク、こちら 

鴻巣友季子の文学潮流(第16回) 試みに満ちた「私たち小説」の収穫 朝比奈秋、ジュリー・オオツカ、小林エリカを読む

「三人称多元視点」とは初めて知りました。

「日本語文学では、ゼロ年代から2010年代にかけて、視点と人称にかんする技法が盛んに取り入れられるようになった」のだそうです。この期間、同時代の小説を読まなかったので、皆目見当も付きません。

一時は「移人称」とも呼ばれた山下澄人や柴崎友香の視点のバイオレーション(violation)を伴う語りや、突然に、あるいはいつのまにか視点がシフトしたり融合したりする小山田浩子、滝口悠生、島口大樹らの手法を私たちは体験してきたのだった。

ここに紹介された作家では、柴崎友香さんの名前しか知りません。(当然そのほか、どなたの手法も体験しておらず。)鴻巣さんは「日本文学では......」というのですから、では世界文学では、いったいどうなっているのやら。楽しみは、先送りしないでいい。長生きはするものですね。Pythonで機械学習を追試なんぞしていては、時間が足りなくなってしまいます。