[NO.1555] 仙人の壺

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仙人の壺
南伸坊
新潮社
1999年01月20日 発行
207頁

おもしろい、不思議な感覚になった。漫画の本ではあるけれど、絵がまるで中国の古い本の挿絵から抜き出してきたような感じ。著者である南伸坊さんによれば、テーマが「読んだあとにポンとそこらに放っぽらかしにされるような気分」であるようだし、変な違和感の残る後味。言葉足らずであるけれど、おもしろかった、という読後感。

「あとがき」によれば、「間にはさんだ、蛇足ぎみの解題は、漫画になれない活字の読者にも、親しみを持っていただけたらという気持ち」なのだそうだ。工夫を凝らしてくれているということなのだろう。

理屈は要らない。とにかく、この不思議な「ポンとそこらに放っぽらかしにされるような気分」を味わうことが肝要です。

 ◆ ◆

本書との姉妹編がある。

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李白の月
南伸坊
マガジンハウス
2001年09月20日 第1刷発行
207頁

出版社が違う理由など、『李白の月』の「あとがき」に出ている。北村薫さんのことも出ているので、『李白の月』の「あとがき」から抜粋すると

P206
 作家の北村薫さんがアンソロジー『謎のギャラリー特別室』をお出しになる時に、私の漫画「巨きな蛤」「寒い日」「家の怪」を採録して下さって、その時に本の話が持ち上がったのでした。
 ほぼ同時期に、新潮社の方からも話が進んでいたことから、はじめに『仙人の壺』としてそちらを刊行し、つづけてこの『李白の月』を上梓しようということに決めたのでしたが、私が怠けていつまでも新作を作れなかったことで、のびのびになってしまいました。


ちなみに、こちらの『李白の月』巻末にも「参考文献」がある。『仙人の壺』との違いは、『聊斎志異 上』『物いふ小箱』森銑三 が入っているところでしょう。その理由も出ていました。

 ◆ ◆

【そもそも、本書を手にするまでの経緯】
すべての発端は 北村薫さんの『 読まずにはいられない』 だった。『読まずにはいられない』を読んでいると『仙人の壺』の名前が出てきた。『仙人の壺』の「まえがき」に、『山月記』のもとになった本について記してあるというのだ。『読まずにはいられない』から孫引き

P249
「山月記」の《もとになった『宣室志』の「虎と親友」》と書いていらっしゃいます。これが、ちょっと違うのです。

南伸坊さんと中島敦という二人の取り合わせが、なんとも気になった。それで、まず昭和34年に出たという『中国古典文学全集6  六朝・唐・宋小説集』を読んでみた。知りたいのは、訳者前野直彬さんが『山月記』のもとになった話について、どう書いているか。巻末に見つかりました。今度は『中国古典文学全集6  六朝・唐・宋小説集』から孫引き

P453
 また明治以後になっても、たとえば芥川竜(ママ)之介が『続玄怪録』の『杜子春の物語』にもとづいて『杜子春』を書き、中島敦が『宣室志』の『虎と親友』によって『山月記』を書いたことなどは、あらためて指摘するまでもなかろう。

ここまでは、『読まずにはいられない』の中で北村薫さんが指摘しているとおり。しばらくして、次なる疑問がわいてきた。はてさて、南伸坊さんは、北村薫さんの指摘するように「本当に『中国古典文学全集6  六朝・唐・宋小説集』の解説を読んだのだろうか?」 なぜなら、この『中国古典文学全集6  六朝・唐・宋小説集』は、入手するには相当にレアな気がするのですよ。

ここでやっと、『仙人の壺』にたどり着くことになる。

P10
 私は『山月記』を読む前に、この話のもとになった『宣室志』の「虎と親友」という物語の方を先に読んでいました。

たしかに「まえがき」の中にありました。この「まえがき」は、なかなかおもしろくて、伸坊さんらしい味のある文章でした。そもそも伸坊さんは、近代の論理とはかけ離れた、もっと素朴で奔放な古代中国の人たちの感覚が好きなのです、という趣旨の流れで、この『山月記』のフレーズが出てきます。

「まえがき」の続きに、ちょっと気になるところが出てきました。

P10
『山月記』を既に読んで知っている人には、この『宣室志』の採録されている『唐代伝奇集2』(東洋文庫16平凡社刊)を、お読みになってみることをおすすめします。

もしかすると、こちらの東洋文庫版にも、前野直彬氏の例の文章は載っているのではないかな。そうだとすれば、『中国古典文学全集6  六朝・唐・宋小説集』じゃなくても、かまわないことになる。

どうなんでしょう。

『仙人の壺』の「まえがき」には、「本を読むのが苦手なタチですが、この系統のものは楽しくて、次々色々に読みました」とあります。「この系統のもの」とは、中国の「伝奇」ジャンルのこと。伸坊さんは、「読んだあとにポンとそこらに放っぽらかしにされるような気分」と紹介している。

ついでに気になって、巻末の「参考文献」に目をとおしてみました。漫画の本で「参考文献」というのも珍しいですよねえ。しかも、こんな専門書まで並んでいるのだし。

①『中国怪奇小説集』岡本綺堂著 旺文社刊
②『幽明録・遊仙窟』前野直彬・尾上兼英訳 平凡社東洋文庫43
③『捜神記』干宝 竹田晃訳 平凡社東洋文庫10
④『六朝・唐・宋小説選』前野直彬訳 平凡社中国古典文学大系24
⑤『唐代伝奇集1』前野直彬訳 平凡社東洋文庫2
⑥『唐代伝奇集2』前野直彬訳 平凡社東洋文庫16
⑦『西陽雑俎1』段成式 今村与志雄訳注 平凡社東洋文庫382
⑧『抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経』沢田瑞穂訳 平凡社中国古典文学大系8
⑨『中国神話伝説集』松村武雄編 社会思想社現代教養文庫875

あれま、出て来ちゃいました。④に『六朝・唐・宋小説選』前野直彬訳 平凡社中国古典文学大系24 とあります。おや? よく見ると、これは 平凡社『中国古典文学全集6  六朝・唐・宋小説集』とは違います。

たしか、『読まずにはいられない』の中で、北村さんが紹介していました。またまた、『読まずにはいられない』から孫引き

P249
前野直彬氏訳のこのあたりのものは、いずれも平凡社から、まず『中国古典文学全集6  六朝・唐・宋小説集』が昭和三十四年に、続いて唐代のもののみをまとめた『東洋文庫2・16 唐代伝奇集』が昭和三十八・九年に、さらに『中国古典文学大系24 六朝・唐・宋小説選』が昭和四十三年に出ています。
伸坊さんは、この『全集』本を最初に読まれたのではないかと思います。その解説に、《中島敦が『宣室志』の「虎と親友」によって「山月記」を書いたことなどは、あらためて指摘するまでもなかろう》と書かれているからです。
わたしも学生の頃、ここを読んで《そうか》と思いました。ところが、そうだとすると、「山月記」に出て来る詩の出典などの説明がつかない。実は、中島敦がもとにしたのは徴妙に違う別系統の話、唐の李景亮撰「人虎伝」なのです。内容からいってもそうだし、中島のノートにも「人虎伝」と書かれているので、動かないところです。
前野氏もそれを指摘されたのでしょう。最後の『大系』本の解説では、同じ流れの中で、《たとえば芥川が「杜子春」を書いたように、志怪・伝奇に取材した作品が幾つか書かれている》と、「山月記」のくだりをカットしています。しかし、すでに出版してしまった本は直せない。書き手にとっては、つらいところです。
勿論、これは伸坊さんの論旨に影響を与えるものではありません。ただ、誰か細かいところをつつく人がいて(あ、わたしか)、《それは違うんじゃないの?》などと出て来られるのも嫌なので、この機会に書き添えておきます。
仙人は、そんなこと、気にしないんですけどね。

つまり、北村薫さんによれば、「最後の『大系』本の解説では、(途中略)「山月記」のくだりをカットしています」ということになります。ここで北村さんのいう『大系』とは、④『六朝・唐・宋小説選』前野直彬訳 平凡社中国古典文学大系24 のことです。あれま、伸坊さんの挙げた「参考文献」には、「山月記」の《もとになった『宣室志』の「虎と親友」》という表記はどこにも出てこないことになってしまいました。

一概には、言えないだろうけれども...... といったところでしょうか。でも、わかりませんね。真意は。

こりゃあ、『唐代伝奇集2』(東洋文庫16平凡社刊)を読んでみますかね。

でもなあ、これには 「山月記」の《もとになった『宣室志』の「虎と親友」》という表記は出てこないだろうしなあ。なにしろ、伸坊さんが書いているのは

P10
『山月記』を既に読んで知っている人には、この『宣室志』の採録されている『唐代伝奇集2』(東洋文庫16平凡社刊)を、お読みになってみることをおすすめします。

という記述だけであって、そこに前野直彬氏の例の「山月記」の《もとになった『宣室志』の「虎と親友」》という表記が出ているとは、どこにも書いていないのだし。

【結論】
答えは出ているのかもしれません。こんな疑問(の兆し)がちょこっとわいたから、北村薫さんは、『読まずにはいられない』に載せた文章を書いたのですよ。あ~あ。

【追記】
『唐代伝奇集2』(東洋文庫16平凡社刊)を読んでみました。P190 に「虎と親友」は掲載されています。文章は『中国古典文学全集6  六朝・唐・宋小説集』のものと同一でした。けれども、前野直彬氏の例の「解説」は当然のことながら、どこにも載ってはいません。念のために『唐代伝奇集1』にもあたって見ましたが、こちらの巻末には「地図」と「唐代年表」の資料があるのみでした。『唐代伝奇集2』には「作品解題」が、1巻からの分も含めて載っていました。どうやら『中国古典文学全集6  六朝・唐・宋小説集』の内容を分割しているようです。

前野直彬氏の「解説」は、文学という名前の起こりからはじまる、おもしろい内容だったのですが。

北村さんによれば、昭和43年に出た『中国古典文学大系24 六朝・唐・宋小説選』には、例の「山月記」の件がカットされた「解説」が載っているそうなので、「解説」を読みたければ、そちらを見ればよいのでしょう。

やっぱり、ここまで北村薫さんが確認していたとおりでした。よくぞここまで調べたものだと感嘆しました。

物語として読む分には、南伸坊さんの紹介したとおりに目をとおすことで、十分に(読者として)楽しめます。

勿論、これは伸坊さんの論旨に影響を与えるものではありません。ただ、誰か細かいところをつつく人がいて(あ、わたしか)、《それは違うんじゃないの?》などと出て来られるのも嫌なので、この機会に書き添えておきます。
仙人は、そんなこと、気にしないんですけどね。

という北村さんの言葉が生きてきました。なにしろ、この部分の出だしが「それこそ蛇足なのですが」と切り出しています。ナイスフォロー。