[NO.1432] 読む力/現代の羅針盤となる150冊/中公新書ラクレ616

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読む力/現代の羅針盤となる150冊/中公新書ラクレ616
松岡正剛佐藤優
中央公論新社
2018年04月10日 発行
238頁

論壇誌『中央公論』創刊130年記念企画として3回分の対談を、その後まとめたもの。全5章のうち、3章~5章で150冊を紹介している。ともに読んでいる本の多さからは引けをとらない。二人ともそれぞれの立脚している視点に違いはあれども、対談ゆえ、相互のやりとりが特色である。そうした丁々発止の面白さに共感できる読者には損のない1冊。

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前書き 一三〇年思想を読むために 松岡正剛

佐藤優氏との対談はいつも愉快だという。「不得意かなと思う話題にもちゃんとキャッチャーミットが出てくるし、ときには矢のような返球がやってくる」と言うように、本書ではピッチャーが松岡氏だった。「ときどき可愛くなるほどだ」とも。対談の様子がうかがえる。

「いくら世界のキラキラ本を並べても、それが日本ではどうなのかという点」を対談の工夫としたとある。これも本書の特色だ。

第1章 子どもの頃に読んだのは

他には見られないような章立て。家庭環境と時代の違いを紹介しあいながらタイトルを挙げている。幼少期の嗜好、思春期、大学時代と年代の異なる二人なので、松岡氏が先に進めている。佐藤氏が学習塾で受けた影響の逸話は他でも目にしていた内容。佐藤氏の方が早熟傾向。打ち明け話として、佐藤氏が高校で文芸部だったとのこと。松岡氏が受けて「それは、かわいらしい(笑)」

黒田寛一で二人が重なって、いろいろ話題が盛り上がった。

「子どもの頃」とは話題が離れるけれど、おやっと思ったことに佐藤氏が文章を書くにあたって、読者像をどのようにして想定しているのか、という逸話があった。2005年にデビューして『正論』『世界』『中央公論』は読者が見えたのに、『文藝春秋』ではそれが見えなくて悩んだという。(ちなみに『中央公論』は『読売新聞』と重なるとのこと)。

p53
佐藤 ......はっとした。「そうか、地方の小中学校の校長先生を思い浮かべればいいんだ」という鮮烈なイメージが、突然降りてきたのです。
松岡 なるほどねえ。ぴったりはまる感じがするなあ。
佐藤 そこを想定読者として、この人たちが一生懸命読むような文章とはどういうものかを考えながら書いていこう、と。

そんなご苦労があったというエピソード。こうした話題に飛ぶところが対談という形態の妙味。

第2章 論壇からエロスも官能も消えた

具体的にはサブタイトル「ポストモダンが奪ったもの」が表している。前書きで、「いくら世界のキラキラ本を並べても、それが日本ではどうなのか」と言っていることと重複する。日本の論壇が、(p60)「面白くなくなっちゃった」ということ。

p71 現代思想を俯瞰する『思想地図』(東浩紀氏、北田暁大氏)には、松岡正剛・佐藤優の二人は入っていない。(佐藤) そういう扱いを受けているということは、「異質を取り込む力が日本になくなったということだ」(松岡)

p74
松岡 それにしても佐藤さんと僕は、まったく違うのに、話が合う。それは我々がそもそもにおいて外部的異質性があるからかもしれない。(笑)。

続けてサイトの「千夜千冊」で松岡氏が「ケチをつけない」のだという点で話題が盛り上がる。佐藤氏曰く「ケチをつけなくても、伏せること、空白にすることで」(それは)わかるとのこと。松岡氏は「若い時期にマルクス主義運動の近くにいて、クリティーク(批評)に限界を感じた」のだという。なるほど。

1・2章では、対談内に出てきた膨大な本についての一覧はない。残りの3・4・5章では、それぞれの章末に一覧表がまとめられている。

第3章 ナショナリズム、アナーキズム、神道、仏教......

佐藤氏が松岡氏に一か月で精読できる冊数を尋ねると、一冊ずつ読むのではなく、関係する本三〇冊くらいを図形のように配置してほぼ同時に読むと答えている。つづけて、読む必要がないと判断したものは途中でやめ、これは重要だと思った本を目次から最後まで精読するのだとも。だいたい、多読派は似たようなもの。

佐藤氏、答えて、

p83
佐藤 そうした読み方を可能にするためにも、まず、体系立てた学術的な知識が必要ですよね。読書には見取り図が必要です。この章はそんな対談にしたいと思っています。
松岡 三、四章のお題は、『中央公論』が創刊された一八八七年(明治二十年)から今日までの一三〇年を理解するための「本の見取り図」を示すこと......

で、サブタイトルが「読書には見取り図が必要だ」。第3章は国内編、明治以降の日本論壇史。章末には「日本を見渡す48冊」一覧。この表で面白いのが但し書きにある、「西暦は初版本の刊行年あるいは、雑誌発表年を示す」ところ。「出版社は、比較的入手しやすいものを挙げている」とも。

具体的には一覧から3冊目を引用すると

p105
『日本風景論』
著◆志賀重昂 1894年/講談社学術文庫

このような形式で48冊がずらっと並ぶ。注意しなくてはならないのは、どのような文脈で並んでいるのかというところ。対談中の流れで、どうしてその本が口に出たのかを読まないと、あまり意味のない羅列に終わってしまう。

二人の言おうとしている趣旨に沿って書名(むしろ著者名)が出てくるのだ。しかも、ときどきレトリックとして口に上ることもあったりするから、この一覧だけ見ても余計にわかりにくいだろう。

ほぼ、松岡氏がリードする中、内村鑑三と新島襄の件を佐藤氏が説明している。アマースト大学へ留学した上記二人が、そろって劣等生、ギリシャ語とラテン語が壊滅的にできなかったという。したがって、学位は通常得られるBA(学術並びに理学士)ではなく、BS(理学士)を二人ともとったのだと。

第4章 民族と国家と資本主義

主に欧米の思想、章末にある本の紹介一覧タイトルは「海外を見渡す52冊」。前章48冊と58冊を足して、ちょうど100冊。

国内編にくらべ、オーソドックスな印象。サルトル『存在と無』とマックス・プランク『物理学と世界観』に挟まれ、思想の科学研究会(鶴見俊輔ほか)『共同研究 転向』が出てくるのは、第3章で書いたように、対談を読んでいなくては、突拍子もないものと受け止めてしまいそう。

p119 「フランクフルト学派」について、丁寧な記述だった。生まれた要因、それぞれの簡単な説明などコンパクト。40年くらい前に読んだのを思い出し、懐かしかった。佐藤氏、お得意のハーバーマスの説明も。それに対して現代ドイツ思想が退潮していることを二人とも挙げている(p138)。

脱線ついでに、p143 一昔前のサイマル出版会に盛り上がる二人。松岡氏「田村勝夫さんの編集企画力です。」 『延安日記』ピョートル・ウラジミロフ、『私のソルジェニーツィン』全夫人の回想記、『ベスト&ブライテスト』ハルバースタイム、『昭和維新』田々宮英太郎。

第5章 ラッセル、養老孟司、弘兼憲史

章末の紹介本タイトルは「通俗本」50冊

p161 「通俗」の重要性で意気投合。「本物の専門家が書いた通俗本」と「通俗的な人間が書いた、通俗本」。さらに専門家以外が本格的なものに挑んだものもあるともいう。なるほど。

冒頭にファラデーの『ロウソクの科学』で二人が一致。懐かしい、中学1年で新卒理科教師から勧められて購入した。

p162 突然、佐藤氏が主に話を進め出した。

松岡 高校から大学生ぐらいの頃、数学と科学の本で圧倒的にいいなと感じたのは、東京図書がずっと翻訳していた「数学新書」(一九五〇年代から刊行)というシリーズでした。その五〇人ほどの著者のほとんどがロシア人だった。
佐藤 ソ連科学アカデミーが作ったものと思います。
哲学書でも、東京図書(商工出版社)が出した『世界哲学史』(一九五八~六四年)という通俗本があります。それも、ソ連科学アカデミー哲学研究所の手によるものです。
......従来の日本の教科書は、近代が中世とルネサンスから始まるようになっているでしょう。そのソ連科学アカデミーから出ている『世界史』という本があるのですが、はっきりと一六四八年のヴェストファーレン体制から近代がスタートした、と述べています。

サブタイトル「ソ連が通俗化に長けていたのはなぜか」。理由は、言語の異なる国々のコミンテルン全部に理解させるためだったと佐藤氏はいう。そのために通俗化が鍛えられたのだそうだ。

p172 佐藤氏が「余談になりますが」と断った上で、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を2017年にマガジンハウスで漫画化し、大ヒットしたことに触れ、「大いに話題になったことは読者の記憶にも新しい。」と発言すると、

松岡 話を国家と書物に戻すと、......

と簡単にスルー。他の場面でも、似たようなスルーがあったような。なんなのか。編集の段階でも、話題になっただろうに。

p186 鎌倉アカデミアで二人、盛り上がる。第一次戦後派あたりの文学史やエピソードを知っていたので、それほどまでに? と思う。ただし、京都の「一燈園」と並立されるとすると、見方が変わった(p222)。「制度化されている学問の外側での知」。

p189 二人ともぴんと来ない加藤周一で一致。佐藤氏が唯一いいと挙げるのが『頭の回転をよくする読書術』(一九六二年)。最初カッパ・ブックス。

佐藤 ......ただし、あれは口述筆記なんですね。
松岡 ああ、そうなんですか。
佐藤 本人は、あんなにうまく書けないと思う。

この佐藤氏の断定は、どこから出てくるのでしょうかね。

あとがき 佐藤 優

またまた米原万里さんの例。

p237
松岡正剛氏の頭の中には、独自の樹形図がある。(途中略)一九八〇年代中葉から九〇年代にかけて、ポストモダンの嵐が(中途半端に)吹き荒れた後、体系知というアプローチに知識人が冷ややかになってしまった。その結果が、現在の閉塞した社会状況を作り出す大きな要因になったと思う。そのような状況で、松岡氏は、編集工学という、知恵と技法が綜合された方法論で、知のネットワークを再構築するという「不可能の可能性」に挑んでいる。(途中略)本書は、読書術の指南書ではなく、「松岡正剛学」という、二十一世紀に日本の知的ネットワークを再構築する体系知に関する初めての入門書であると私は密かに誇っている。

最後の「松岡正剛学」の「初めての入門書」がすごい。末尾には「松岡正剛先生」に深く感謝とも。


【追記】
佐高信さんとの対談で本を紹介している新書がある。[NO.1416] 世界と闘う「読書術」(思想を鍛える一〇〇〇冊)リンク、こちら