[NO.1157] 小説探検

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小説探検
小林信彦
本の雑誌社
1993年10月25日 初版第1刷発行

初出
『本の雑誌』1989年5月号~1993年6月号
加筆訂正、書き下ろし一篇を加えた、とのこと

目次
01 〈いかに語るか〉について
02 オープニングと映画の技法
03 人生はアクシデンタル
04 フォーサイスにおける得意と不得意
05 ハードボイルド的定石
06 映画と小説のあいだ
07 〈悪い〉たのしみ
08 〈最新作〉としての「蓼喰う虫」
09 トマス・ハリス的パターン
10 そこまで書く!?
11 なにから読むか、バルザック
12 J・M・ケインの不思議
13 ミステリが〈わからない〉ということ
14 日本文学の根本問題
15 題名についての果てしない悩み
16 永井荷風の「小説作法」
17 〈短篇小説〉について
18 下町歩きと血縁
19 フェミニズムと不倫
20 「流れる」と〈文化の終わり〉
21 企業小説の変貌
22 アメリカ版〈私小説〉への不満
23 二つの監禁物語
24 戦争と小説
25 二人のチャタレイ夫人
26 スピレインの過去
27 英日疎開事情
28 作者と作中人物の奇妙な関係
29 毒が魅力のハイスミス
30 プルーストをどう読むか?
31 〈あのころ〉をどう処理するか?
32 またしても、ハイスミス
33 エンタテインメントと脚色
34 オリジナルなプロットを求めて
35 「大菩薩峠」をめぐって
36 大学に入ったら何を読むか?
37 告白とフィクション
38 長けりゃいいてものじゃない
39 現代にもある〈小説の原点〉
40 シムノンの語り口
41 松本清張の語り口
42 〈犯人がわからない〉批評家たち
43 「失われた時を求めて」を読み通す方法
44 〈茜色の〉クロニクル
45 〈一人称〉について
46 たまには〈ハリウッド小説〉も
47 「濹東綺譚」の独創
48 とんでもない、「雪國」
49 三島由紀夫論の勝手な読み方
50 「鍵」の独創と危機
あとがき

NO.1154 小説世界のロビンソン』に続けて書かれた評論。したがって、『小説世界のロビンソン』についての言及も出てくる。この本を読んでから、どうしても気にかかり、今回『小説探検』も再読。ちなみに本書も3月11日の地震で書架から落ちてきたた中の一冊。そうでもなければ、手にすることもなかったはず。

で、既読『NO.641 読書中毒』(文春文庫)と重複していたことを、すっかり忘れていたことを思い出す。しかも、こちらの文庫では、追加分まであったとは。

本書で小林氏が言っていることは、ことごとくどれもが至極まっとうであり、うなずけることばかり。唯一、ポリティカルなことに言及したところに、しばし勇み足というか、頭が沸騰してしまっているようなところ、あり。

※   ※   ※

戦時中、都内の学童疎開先一覧が出ている。

p145
これらは、かつて、〈集団疎開〉をした老人に書いてもらったもので、原稿はぼくの手元にある。
しかし、書きうつしていて、おかしなことに気づいた。〈港区〉の児童が栃木県へ行ったことになっているが、当時は〈港区〉という区名は存在していない。これは〈芝区〉のまちがいだろう。(書いた人が、うっかりしてしまったらしい。
そういう疑問点はあるが、かつて、ぼくが調べた範囲内で、こういう風に具体的なリストはなかったし、その後もない。戦争中の新聞にしか出ていないし、この件に関しては文献といったものもないのである。

※   ※   ※

p162
「31 〈あのころ〉をどう処理するか?」というタイトルで書評している。

「対話篇 村上春樹をめぐる冒険」(河出書房新社)をむさぼるように読んだ。
理由は、現代日本の生きている作家でぼくが興味をもつ数すくない作家の一人が論じられていること、そして、その論じ方が清鮮なものであること、といってよいだろう。

笠井潔、加藤典洋、竹田青嗣の三人の評論家が集っている。

※   ※   ※

何度も出てくるのがパトリシア・ハイスミスについての紹介。奇妙な味とのこと。

※   ※   ※

可笑しかったのが映画「氷の微笑」について紹介した「42 〈犯人がわからない〉批評家たち」。小林氏がニューヨークへ行ったとき、「氷の微笑」が封切られたのだが、法律用語のとび交うような映画らしいから、コトバがわかりにくいだろうと思い、観なかった。以下、抜粋。

p221
まえもって批評を読まないので、内容を知らなかった。
日本に帰ってきて、送られてくる雑誌をめくると、映画の批評が出ている。それらを見る限り、〈犯人がわからない〉ということが、やたらに書いてある。映画ライターという連中の中には配給会社の手先がいるから、〈宣伝〉かと思っていたら、そうでもないらしい。本当に、真犯人がわからないのだという。
(そこで、小林氏は自腹で観に行った。)途中略
で、犯人は?
なにしろ、容疑者は女三人しかしなくて、二人が殺されてしまうのだから、ラストで出てくる女が犯人にきまっている。しかも、凶器までうつして、念押しをしているのに、〈犯人がわからない〉とは、どういうことか?

映画が終わり、エレベーターにのると、二十(はたち)ぐらいの女の子二人が話している。
「すごいけど、なんだか分からなかった!」
地下鉄に乗り、プログラムをひらくと、某映画ライターが、プログラムならいいだろうと、犯人の名を明かしている。しかし、それは、二番目に殺された女の子の名なのだ!

世の中には、ミステリの公式を知らない人がいるのだった。(考えてみれば、あたりまえの話だが。)
二番目の女の子が殺されたあとで、定石通り、〈にせの解決〉がある。警察としては、それで一件落着なのだが、主役(刑事)のマイケル・ダグラスは釈然としない。いや、そうなのかどうかも、演出が下手なのではっきりしないのだが、そもそも、彼はミスキャストで、ジョン・ガーフィールドや若き日のポール・ニューマンの役所(やくどころ)なのである。
そこに真犯人が現れる。これから二人はどうなるのか――というところで、映画は終る。いかにボンクラな監督とはいえ、彼女が真犯人であることを、二度のツイスト演出で観客に示している。
それでも真犯人が(ということは、ストーリーが)わからないとは、どういうことなのか?
友人と話し合ったのだが、テレビの「火曜サスペンス」とか、ああいう安易な推理物になれてしまって、犯人が自白でもしない限り、もう、観客の多くはストーリーがわからなくなってしまっている。〈考え落ち〉だと、混乱してしまうのではないか。――結論はそういうことである。
鑑賞力(というほどのものではない、この場合)の低下、衰退もきわまったのではないか。
まあ、映画や映画ジャーナリズムの場合、もう手がつけられないほど、ひどいことになっているから、怒っても仕方がない。
「氷の微笑」は典型的なB級映画の構造をもっていて、同じアメリカでも、もっとすぐれたB級映画の新作があるのだが、それらについては一向に語られない。

プログラムに間違えた犯人を挙げているという某映画ライターとはいったい誰のことだろう。さらに、もっと可笑しい文章がある。「13 ミステリが〈わからない〉ということ」では、直木賞選考委員の不明ぶりについて。