もっと、狐の書評/ちくま文庫 山村修 筑摩書房 2008年7月10日 第1刷発行 |
一番面白かったのが、『季刊 本とコンピュータ 2004年冬号』に掲載された「書評者に「名前」なんか要るでしょうか」。東京新聞夕刊(2004年2月19日付)で、狐氏を取り上げた内容に太いためいきをついた、としている。
以下、引用
......狐氏は点が甘く、ほとんど賞(ほ)めてばかりです。これなら実名でもいいではありませんか。匿名なら、往年の百目鬼恭三郎〈「風」の書評〉くらいの厳しさも欲しい。その方が読みものとしても自立できましょう。狐氏は難しい岐路に立っているようです。
いろいろに感ずるところのある文章です。まず、「点が甘い」とはなんでしょうか。書評者は審判者でしょうか。「賞める」とはなんでしょうか。書評者は教師かなにかで、本は生徒の答案かなにかでしょうか。
途中略
どうやら狸さんは、匿名というものに隠れ蓑としての効用を考えているようです。隠れ蓑があれば、書きにくいことも書ける――、と。それは可笑しい、狸さん。
私はその考えかたに、むかしからこの国のジャーナリズムにひそみ、いまも生きつづけている一面をみます。暗くて、嫌味で、高飛車な面です。
狸さんは「風」の書評を例に引いています。しかしあえて申せば、私は「風」の書評については、筆者の学殖には敬意を払いつつ、匿名書評というものを暗くて嫌味で高飛車なものにしてしまった元凶のひとつと思っています。
途中略
で、この後に実例を挙げ、最後にはこのように書かれている。
読むまえから、すでに書く方向は決まっているのです。すなわち、自分の教養の道すじにちかい著作家(同時代人では開高健、丸谷才一、向井敏など)の本なら可。道すじからはずれる著作家の本は、すべてとはいわないまでも、およそ不可。
とくに「風」だけをあげつらうつもりではないのです。匿名にせよ記名にせよ、ここに書評家がはまりやすい陥穿が、暗くて陰湿な穴があると私は思うのです。
この穴のなかで書かれる書評は、けっして読者に向かって本を差し出そうというものではありません。逆に、本を閉ざそうとするものです。本を閉ざして、なにを語るのかといえば、自分のことです。自分の教養、自分の眼力のことです。
小林秀雄は他人のふんどしで相撲をとっている、というフレーズを思い出すばかり。
匿名書評。 暗くて嫌味で高飛車なもの。書評家がはまりやすい陥穿、暗くて陰湿な穴。 本を閉ざして語る自分のこと(自分の教養、自分の眼力のこと)。 |
それを鹿島茂さんは「ドーダ理論」と名付けた。『ドーダの人、小林秀雄/わからなさの理由を求めて』とか『ドーダの人、森鴎外/踊る明治文学史』や『ドーダの人、西郷隆盛』なんて本まで書いている。
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