[NO.780] 新編 川蒸気通運丸物語/明治・大正を生き抜いた利根の快速船/ふるさと文庫

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新編 川蒸気通運丸物語/明治・大正を生き抜いた利根の快速船/ふるさと文庫
山本鉱太郎
崙書房出版
2005年3月10日 発行

 通運丸ファンにとってはたまらない本。娘さんと流山から銚子まで自転車で走り通したというエピソードには驚きました。涙ぐましい行程。

p131
 私たちが走った国道三五六号というのは有名なダンプ街道で、砂利、砂を満載したトラックが爆走し、そりゃ危ない道である。そこを自転車で走るのだから命がけである。夜に入ってヘッドライトをつけると急に自転車のペダルが重くなり、とうとう気丈なはずの娘が泣き出してしまった。
「パパー、旅館に泊まろうよ!、パパー泊まろうよ!」
 私は言った。
「待て! もうすぐ佐原だ。がんばれよ」
 夜は町の灯が明るくまとまってみえ、あれこそ佐原だと思って懸命にペダルをこぐと、ごく普通の農村でがっかりする。
「待て! こんどこそ佐原だ。あれが佐原の灯だ」
 いくらペダルを踏んでも佐原は遠い。こりゃ大西洋を無着陸飛行したリンドバーグと同じじゃないか。「翼よ、あれがパリの灯だ」というセリフを思い出して苦笑した。娘は自転車に乗りながら泣いていた。
 前途が思いやられたが、どうにか夜十時、ようやくのことで佐原の町にたどり着いてここで一泊。翌朝早く犬吠埼までとばして帰りは銚子図書館に行き、翌朝四時に宿を出立。坂東太郎をこえて茨城県の波崎に渡り、利根川河口堰から再び千葉県側に戻って国道三五六号を力走。流山に帰って釆たのは午後五時だった。百二十㌔を十三時間で走ったことになる。三日間であわせて約二百四十㌔をポンコツ自転車で走ったわけだが、これは貴重な経験であった。ガタゴトの細い土手ばかりを三日間も走りつづけて、通運丸のことばかり考えていたら、次第に通運丸に乗っているような気分になってきたから不思議だった。それにいろいろなことがわかり、また疑問もわいてきた。船の便所はどうなっているのだろう。両方の水かきをつなぐ長いシャフトは船内ではむき出しになっているのか、満潮時に橋の下をくぐるとき煙突はどうしたのかといった素朴な疑問が次々にわいてきたので、それらを通運丸に乗ったという土地の古老にぶつけてみた。

 娘さんが泣いたことよりも、著者の頭の中では、わき上がる疑問の方に気持ちが移っています。NO.189『子供より古書が大事と思いたい』の中で、鹿島茂氏が国産車のあの小さなシビックをフランスで運転しながら、後部座席に満載した大部の辞典(古書店で買った175キロもあるもの)を息子さんに押さえさせた、という逸話を想起しました。

 特に第2章、「数十人の生きた証言と自転車取材などの体験を下敷きにしながら、私が大正中期の某月某日、東京の高橋から通運丸に乗ったことにして、幻の通運丸紀行をつづ」ったという文章には、あきれてしまいました。鉄道オタクのことをテツと呼びますが、これは何と呼べばよいのでしょう。