この十年以上の間、「散歩」はわたしの生活の一部になっている。ほぼ毎日一時間ほど歩く。さほどヴァリエーションがあるわけではない。それでも、できるだけ異なる道を歩く。八千歩から一万歩ぐらいか。でも、歩くことだけが目的ではない。喫茶店か本屋、できれば古本屋を巡りたい。レコード屋、古着屋も目的の一つに含まれる。自宅の周辺にそうしたものがいくつもあるわけではないし、この数年の間に散歩のコースにあった本屋が壊滅してしまったりしたこともあって、電車やバスを使って、歩くための場所に行くことも増えた。なんとなく邪道という気もするのだが、必要に応じてという感じか。どこに行くかといえば、たとえば神保町。この街は、わたしの散歩の目的には理想的な場所の一つだ。けれども、こうなるといわゆる「散歩」ということになるのかどうか。少なくとも現役を引退した高齢者による「散歩」とは、違うのではないか。よくわからない。ただ、歩数は常にチェックしているから、本屋と喫茶店で時間を過ごしているだけではない。言い訳しておく。
もともとわたしは歩くことは嫌いではない。アイディアや考えることに行き詰まったら、どうするか。机の枚に座っていても、何も思い浮かばない。わたしの解決策は歩くことだった。部屋の中を歩き回る。それだけでは足りないので、外に出て、少なくとも一キロ程度は歩くことになる。それでだいたい何か思いつく。つまり歩くことは、考えることと同じようなものだ。これはわたしだけのことではないらしい。アリストテレスの時代から、歩くこと考えることは極めて近いということになっているし、レベッカ・ソルニットの「ウォークス」みたいに多くの哲学者たちが歩くことによって思索を深めていたことをまとめた本もある。
鏡明さんの散歩って、まるでJ・Jおじさん(=植草甚一)とかわらないじゃないかとつぶやきながら読んでいると、知らない書名が飛び出してきました。『ウォークス 歩くことの精神史』(レベッカ・ソルニット著、 東辻賢治郎訳/左右社刊/2017)
面白そうです。でも、お値段が税込で4950円。ふーむ、ほいほいとは買えそうにない価格です。
そして、この記事の冒頭に立ち戻りました。
フランツ・ヘッセルの「ベルリン散歩」(岡本和子訳、法政大学出版局)を買ってしまった。税別四千円。金銭感覚が少し狂い始めているのかもしれない。ちょっと前なら、見送っていたように思う。このところ、二万円を超える本を見慣れてしまったことが原因かもしれん。いや、本の値段について、どうこう言うのは、無意味であるのは確かだ。読みたいかどうかが、その本の価値を決める。だいたい文庫で二千円近いものがあるという光景が当たり前になりつつあるわけで、現在の出版を取り巻く状況、そして全ての価格が上昇しているのだから、本の価格が上がって行くのも当然の成り行きなのだろう。
それでも、この「ベルリン散歩」は、かなり衝動的に手を出してしまったので、なんとなく違和感があった。ヘッセルという著者のことも知らなかったし、ベルリンに関心があったわけではない。ただ、「散歩」という言葉に惹かれてしまった。
(この次に、先ほど冒頭で引用した文章が続きます。)
ここまで執拗に本の値段について書いているのは珍しい。これはプロの書き手が書いたもの。(たしかにこのごろは本が高いと思います。)
そうして話が進んだところで紹介された本(レベッカ・ソルニットの「ウォークス」)の値段が4950円もするだけに、「違和感」を覚えたのでした。
「部外者の散歩」というタイトルのついた、この記事は、ベンヤミンが出てきたりする興味深いものでした。
ただ、歩数は常にチェックしているから、本屋と喫茶店で時間を過ごしているだけではない。言い訳しておく。おもわずくすっと笑ってしまいました。
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【重箱の隅つつくの助】![]()
ところで、どうしてこの記事が目についたのかというと、ほぼ毎日一時間歩いていて、それが八千歩から一万歩ぐらいであるというところに「違和感」を覚えたからです。この歩数(八千歩から一万歩ぐらい)を歩くのに、一時間じゃ無理ですよ。競歩じゃないんだから。競歩というよりも、むしろジョギングでしょう。とても「散歩」とは呼べません。それを十年以上もの間、続けているのだといいます。こりゃ変です。
| 【引用元】 ■「本の雑誌」2025年9月 味玉つるべ落とし号 No.507 P108 連続的SF話●496 部外者の散歩 ●鏡明 |
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