[NO.1659] 生誕100年 安部公房 21世紀文学の基軸

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生誕100年 安部公房 21世紀文学の基軸
編者 県立神奈川近代文学館、公益財団法人神奈川文学振興会
平凡社
2024年10月18日 初版第1刷発行
263頁
再読

昨年、県立神奈川近代文学館で開催された展覧会

特別展「安部公房展――21世紀文学の基軸」2024年10月12日(土)~12月8日(日)

での公式図録です。

同じく同所で昨年開かれた展覧会

特別展「帰って来た橋本治展」2024年3月30日(土)~6月2日(日)

の図録(たまたま見に行ったときに購入)と比べると、安部公房展の図録の立派さが際立ちます。図録というよりも、ハードカバーの書籍です。

版元 平凡社 サイトに本書のページが用意されています。「この本の内容」「目次」に分かれ、どちらも詳細な内容です。「お詫びと訂正」まで用意されています。リンク先、こちら 

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上記サイト内の目次に記載されていなかったところがあったので、追記します。

【執筆者一覧】
三浦雅士/安部ねり/鳥羽耕史/近藤一弥/乾俊郎/大笹吉雄/加藤弘一/苅部直/川上弘美/多和田葉子/中村文則/鷲田清一
【安部公房 略年譜】
【安部真知 略年譜】
【主な出品資料】
【出品者・協力者一覧(敬称略)】

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【安部公房についての個人的なちょっとした思い出】

半世紀以上も昔の話。そのころ、ちょっとずつ知的な背伸びをするなかで読んだ作家に安部公房がいました。きっかけはSF小説の延長で手を出したような。倉橋由美子と並行して読んでいました。子どもにとって、ともにタイトルがカッコいいので、文庫をじゃんじゃか買って読みました。当時、「デンドロカカリヤ」「第四間氷期」「R62号の発明」や「スミヤキストQの冒険」なんてクールなんだって思い込んでました。
そんなとき、今は亡き親父がちょっかいをだしてきました。
「なんだ、おまえ。アベコボを読んでいるのか?」
当時、売り出し中だった女優の秋吉久美子が、好きな作家は? と芸能レポーターから聞かれ、「アベコボ」とつぶやいたのだそうです。時代だなあ。
おかげで、それまで入れ込んでいた熱が一気に冷めました。

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去年は安部公房の生誕100年でしたから、「アベコボ」の思い出は、ちょうど半分の折り返し、およそ50年目あたりでした。そうして、それからまた50年が過ぎた今、衛星放送でも、生誕100年の特集として、勅使河原宏監督作品が連続放映されていました。
1960年代の東京が映り込んでいるところに注目すると、舗道のゴミが多かったり、電柱が木造だったり。流行の衣装に目がいきがちですが、むわっとした風の匂いが想起されます。

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P.64
第一部 故郷を持たない人間
 安部公房は、医師の淺吉と、作家志望の母・ヨリミの長男として、一九二四年(大正一三)三月七日に誕生した。翌年、両親と満州(現・中国東北部)へ渡り、奉天市(現・瀋陽市)で育つ。成城高等学校(現・成城学園高等学校)への進学を機に、ひとりで内地へ戻った。高校時代の詩や小説の原稿からは、このころすでに作家を志していたことがうかがえる。戦時教育体制下の在学年短縮措置で、一九四三年(昭和一八)九月に高校を繰り上げ卒業となり、東京帝国大学(現・東京大学)医学部に進学。しかし、敗戦が近いとの噂を耳にして、一九四四年一二月、幼馴染みの金山時夫と満州へ向かった。
 敗戦後には、同地で大流行した発疹チフスの往診に追われた父・淺吉が感染し、死去。無政府状態に陥った満州で不安な日々を送るなか、公房はサイダーを製造、販売して一家の生活を支えた。一九四六年秋に家族を連れて引き揚げ船に乗り込むが、上陸間際に船内でコレラが発生し、佐世保港外に長期間留め置かれた。こうした生い立ちと戦中、戦後の過酷な体験は、後年の作品にも影響を及ぼしている。引き揚げ後、北海道・旭川の母の実家に家族を残し単身上京、東京大学医学に復学。極度の貧困に負けず学業と執筆を続けた。
 一九四七年、のちに妻となる山田真知子と出会う。同じころ『無名詩集』を私費出版。秋には作家デビュー作となる小説『年度塀』(「終わりし道の標に」に改題)を書き上げた。

P.65
安部淺吉(1898-1945) 北海道上川郡鷹栖村(現・旭川市)生まれ。1921年(大正10)南満医学堂卒業、同校奉天分院小児科医局入局。栄養学を学ぶため栄養研究所(現・国立健康・栄養研究所)に出向中の1923年、同郷の井村ヨリミと結婚。「患者食研究」で博士号を取得。1931年、ドイツへ官費留学し、翌年満州医科大学助教授となる。1942年に研究職を離れ、奉天市内に安部医院を開業した。

P.66
井村ヨリミ(1899-1990)は北海道上川郡鷹栖村(現・旭川市)生まれ。1919年(大正8年)東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)文科に入学。社会主義婦人団体「赤瀾会」のポスターを校内掲示板に貼り、退学処分となる。1923年、同郷の安部淺吉と結婚。翌年3月7日に長男・公房が誕生した。同月、長編小説『スフィンクスは笑ふ』(異端社)を上梓。晩年は歌誌に短歌を投稿するなど、創作への思いを生涯持ち続けた。

P.94
第二部 作家・安部公房の誕生
 成城高校時代の恩師・阿部六郎は、小説「粘土塀」を読み、埴谷雄高(ゆたか)へ紹介。埴谷の推薦で「終わりし道の標に」として雑誌「個性」(一九四八年〈昭和二三〉二月)に掲載され、公房はついに文壇デビューを果たす。その後も「斯(か)く在る」ことを問う作品を執筆し続けるが、発表が叶わないことも多かった。このころ、前衛芸術運動のグループ・世紀(世紀の会)や夜の会に参加。「デンドロカカリヤ」など、次第にシュルレアリスムの影響を感じさせる作風へと変化する。また、同じころ石川淳のもとを訪ねるようになる。石川に託した「壁──S・カルマ氏の犯罪──」は原稿用紙二〇六枚に及び、公房が一挙掲載を望んだために掲載先探しは難航したが、ようやく雑誌「近代文学」(一九五一年二月)に掲載された。同年五月ころ、日本共産党に入党。七月に「壁」の芥川賞受賞が決定した際は、文化工作活動のため滞在していた大田区下丸子でその知らせを聞いたという。
(以下略)
かくして埴谷雄高と石川淳という(奇妙な)取り合わせの先輩とつながりをもつことに。

P.190
安部公房と車
軽井沢へ家族でドライブ 1960年(昭和35)夏 初めて購入した車・日野・ルノー4CVで。同年7月、公房と真知は自動車の運転免許を取得し、夫婦で競うように長距離のドライブを楽しんだという。以後、さまざまな車に乗り換えた。
日野・コンテッサ900と、公房と真知 1962年ころ
日野・コンテッサ1300クーペと、ねり 1965年ころ
ルノー・カラベルと、真知 1965年ころ
ランチア・フルヴィア・スポルト 1968年ころ
BMW2000と、公房と真知 1969年ころ
三菱・パジェロに乗る 1984年ころ
ジープ・チェロキーチーフ、メルセデス・ベンツ350SL(車庫内)と箱根の仕事場で 1986年ころ その後、1991年にジープ・ラングラー・レネゲードに乗り換えた。写真提供・新潮社

タイヤチェーン「チェニジー」 公房の考案によるもので、西武百貨店等で販売。1982年に実用新案登録願を出し、1991年に登録された。箱根に仕事場を持っていた公房は、雪道で車を走らせる機会が多く、ジャッキを使わずに着脱できる本品を考えた。

当時、このタイヤチェーンは話題になりました。

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「口絵 公房の遺品」説明
P1自作の印章
P2 パイプ
P3 万年筆
P4.5 ワープロ(NEC 文豪 NWP-10N)
P6-7 カメラ、レンズなど
P8-9 シンセサイザー(EMS SYNTHHI AKS)
P10^11 シンセサイザー(KORG MS-20)
P12 イカ釣り漁船のランプ
P13 碍子
P14-15 モデルガン
P16-17 自作のオブジェ(FBI長官の顔)
P18 マジックグッズが入ったケース
P19 ルービックキューブ
P20-21 ブタの貯金箱
P22-23 ワープロ(NEC 文豪 3M Ⅱ)(撮影・望月孝)
P24 「繭の内側」ヴィデオ・インスタレーション 2002年(平成14年)制作・近藤一弥

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口絵写真から

シンセサイザーだのは想像できても、碍子を持っていたというのが、やっぱり変わってますよね。

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本書に手をだすきっかけが、「週刊ポスト」の書評でした。

【週刊ポスト2025年1月3・10日号】の書評は特集を組んでいました。

POST Book Review この人に訊け!新年事始め特別企画
2025年を占う「この1冊」

として12名の書評委員が記事を書いています。そのなかの大塚英志さんのものが目をひきました。選んだ本のことは冒頭1文で紹介したのみ。リンク、こちら 

【NEWSポストセブン】
2024.12.28 11:00  週刊ポスト
ライフ

【大塚英志氏が選ぶ「2025年を占う1冊」】『生誕100年 安部公房 21世紀文学の基軸』転向したマルクス主義体験者に支えられてきた戦後

【書評】『生誕100年 安部公房 21世紀文学の基軸』/県立神奈川近代文学館、公益財団法人神奈川文学振興会・編/平凡社/3300円
【評者】大塚英志(まんが原作者)

 本書は神奈川近代文学館の特別展「安部公房展―21世紀文学の基軸」の公式図録である。
 特別展を見て思い出したのは安部が野間宏の仲介で日本共産党に入党したことだ。その後、除名され、三島由紀夫らと文革批判への抗議声明を出し、『榎本武揚』を転向小説とする議論もあったはずだ。安部の共産党員としての活動期間は一年程度だが重要なのはその構想力の質とマルクス主義の関係だ。僕は以前、某所でセゾングループをかつて率いた堤清二の想像力とマルクス主義体験について話したことがある。堤が未来を見透かす経営者であり得たのはマルクス主義が未来を社会科学的に構想する方法論だからだ。
 安部公房が「SF」という方法論に自覚的であったことは今回の展示でも確認できたが、それは社会科学的構想力というべき側面を確実に持つ。特別展では安部の愛用したワープロやシンセサイザーが展示されその先見性が強調もされるがオンライン社会にも届きうる「SF」的構想力の出自はマルクス主義にあり、それは文学と社会科学が切断されたこの国の文学が失って久しいものだ。今や「SF」は百田尚樹が暴言を吐くための方便以上の意味を持ち得ていない。
 だがその構想力の及んだ領域は文学に限らない。堤清二がそうであったように戦後の日本社会のある部分は確実に転向したマルクス主義体験者に支えられてきた。堤を共産党に誘った日本テレビの氏家齊一郎や安部の処女作の刊行元・真善美社の経営に関与した徳間康快も共産党歴があるが彼らはスタジオジブリのパトロンであった。
 日本共産党は党勢の衰退に直面するがその理由はもはや共産党からの転向者・除名者が文学や社会を牽引する力がとうにないことに見てとるべきだ。それは彼らの構想力の疲弊である。社会の衰退は文学の構想力の衰退とパラレルだ。共産党の未来はどうでもいいが文学と社会科学はもう一度出会い直すべきだ。

※週刊ポスト2025年1月3・10日号

百田尚樹云々は別として、大塚さんの主張(の前半)は今さら目新しいことでもなく、そんなことは50年以上も前から言われていたぞ、なんて思いながら目をとおしていました。

すっかり手にすることもないまま半世紀以上の「アベコボ」。生誕100年という釣り文句に誘われたかもしれません。

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