私の見た人 装本 朝倉摂 |
口絵としての扱いなのでしょうか、中扉の手前に和紙を洋紙へ貼り合わせたページがあります。蝶が二匹描かれ、setsuのサイン。朝倉摂さんです。昭和30年代までには、こんな趣味の書籍が当たり前だったような記憶があります。朝日新聞社の出版ですから、青蛙房のような趣味人相手の本ではありません。それでも、新聞の学芸欄の息吹をうっすら思い出すと、当時はこうした「よき文化」とまでいわなくても、習慣とでもよべそうな空気があったことは、幸せだったのでしょう。
吉屋信子さんの描く人物評は、ゴシップとは言い切れなくとも、噂話のたぐいといっていいものです。古き良き時代の女学生が交わした噂話、その延長線上にあるのが本書の人物評じゃないかな。
目次が出版社サイトに掲載されています。引用します。
目次
田中正造/万龍・照葉/徳富蘇峰/三浦環/新渡戸稲造/小林一三/グラーツィア・デレッダ/大杉栄/九條武子/モルガンお雪/直木三十五/中村吉右衛門/宮城道雄/九條日浄尼/横綱玉錦/與謝野晶子/菊池寛/高橋箒庵/汪兆銘/張学良/沢村宗十郎/坂田三吉/春日とよ/中谷宇吉郎/久米正雄/平出英夫/長勇/田村俊子/美濃部達吉夫妻/関屋敏子/高浜虚子/徳富愛子/及川道子/近松秋江/竹久夢二/湯川秀樹夫妻/古今亭志ん生/森律子/中村歌右衛門/井上正夫/羽仁もと子夫妻/徳田秋声/大倉喜七郎/藤蔭静樹/小波と水蔭/菅原時保/市川猿翁/あとがき
本書が出版された昭和38年(1963)当時は、これらの人名が人口に膾炙されていたのでしょう。
「あとがき」に初出が紹介されています。
P.283
いまこの一巻にまとめられた四十七篇は昭和三十八年二月五日より同七月七日にわたって朝日新聞学芸欄に連載されたもの。私にとっての異色ある記念の著述として忘れがたい。
「あとがき」には、また『自伝的女流文壇史』なる書籍に書いてしまった文壇人、女流作家は人選から避けたとあります。政治家も「割愛した」のだとも。そのくせ(?)、今となってはなじみの薄い軍人が複数選ばれていたりもします。
古屋信子女史が、年長のおじさまにかわいがられていた様子が、自慢や嫌みではなく書かれています。
今となっては計り知ることのできない会話のやりとりが面白し。
なんといっても、戦前、それも大正以前のものが格別にいいです。昭和では、せめて事変の手前まで。
脚色された内容もあるのでしょうが、(少女小説とまではいいませんが)近代版絵物語です。
それにしても、戦前に洋行までしていたことに驚きます。シベリア鉄道でパリへ。
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九條武子が東大病院で死の間際でのこと。
P.43
武子夫人は枕頭のその医師たちに「絶望ならそう早く告げて欲しい」と言われ、医師が患者への心づかいから真実を告げない態度に、夫人は「ご存知のくせに」とほのかに微笑されたと──伝えられた時──私のバカは恍惚とした......。
私のバカは恍惚とした...... こりゃ、もう芸の域ですな。豊崎由美かっ。
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お住まいの地 牛込区砂土原町時代
P.53
わたくしは昭和十年から戦災で家が焼けるまで約十年、当時の牛込区砂土原町に住んだ。その近くに宮城道雄の家があるのを発見し、やがてこんどはわが家の前を一〇〇㍍ばかり行ったところに川合玉堂邸と向い合わせの門に〈波野〉の表札を見つけた。それは中村吉右衛門の住居だった。
宮城道雄のところで
P.57
顔がわかるより心というやつがわかっちまうのがこわかった。
「わかっちまう」こんな言葉遣いが朝日新聞学芸欄に載ったことに驚きます。
P.58
その日の初対面からお知り合いみたいになってある日、お宅に招かれたら二階の座敷に外にもお客が大勢いて、背広の紳士が琴を弾いていられた。それは初めて見る内田百閒氏だった。
内田百閒と宮城道雄は親戚だったというのを思い出しました。この本ではたびたび「~ていられた」という表記をたびたび目にしますが、この言い回し、いまでは(見ないことはないけれど)珍しいかな。「~てらした」あたりが使われるかな。
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P.70
だから私は玉錦へというのは、いささかきいちゃんみいちゃん的な感傷だったかも知れないが......。
「きいちゃんみいちゃん」とは「みーちゃんはーちゃん」の同義かな。
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汪兆銘のところで
P.101
なにもかもむかしむかしのお話し──けれどもみんなみんな忘れ得ぬひとびと......。
おお、少女小説だ。
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鎌倉文庫の創設にまつわる話ということでいい? 戦時中のこと 久米正雄のところで
P.124
ものの数ならぬ私までにらまれてもう何も書けなくなったところへ、B29に家を灰にされて鎌倉にささやかな母の隠居所へ逃げ込むと、久米さんがあたたかく慰めた。
P.127
企画性にすぐれた才人久米さんの発案で鎌倉の作家蔵書を供出の貸本屋「鎌倉文庫」が八幡通りに出現した。そのころほとんど文芸書の刊行されぬ時とて大繁盛、久米夫人、川端夫人、高見夫人がお店番というほほえましい士族の商法だった。
それが戦後発展して図書発行元の会社「鎌倉文庫」となって社長は久米さん。(以下略)
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田村俊子のところで
P.143
その日、晩春の小雨が新緑にそそぐ北鎌倉の東慶寺に私は行った。それは女の作家の大先輩田村俊子の十九回忌、そして俊子賞授与式の日だった。
お寺の広間にはすでに佐多稲子、中里恒子さんたちが先着していられた。やがておいおい顔がそろった女性ばかりのなかに偉丈夫立野信之、草野心平両氏も見えたところで一同は傘をさして境内の墓地の俊子の墓にもうでた。(略)
今年の受賞者倉橋由美子さんに、(以下略)
不意に倉橋由美子の名が飛び出てびっくり。倉橋由美子と吉屋信子とでは頭の中がつながらないので、しばらく考えてしまいました。吉屋信子といえば、戦前の作家というイメージだったのが、こうして地続きにつながった気がしてきます。
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古今亭志ん生のところで
P.218
私は若い時からどうしてか座談会とか対談会によく狩り出された。
おまけに司会者というのにもよく狩り出されていませんでしたっけ。主催者の狙いは、度胸と気っぷの良さだったりして、
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P.229
「失礼なひとだ」と歌右衛門丈おこらないで、まだこのあとがアリマスから......。
このようなカタカナの使い方「アリマス」、今じゃありえない。朝日の文芸欄。
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徳田秋声のところで
P.252
私は文学娘のころから秋声の作品に叙情も詩もないと不満で魅力を覚えなかった。
それだのに先生は私の懸賞応募作品を認められたのは不思議なぐらいだった。
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藤蔭静樹が永井荷風のことを忘れられず、荷風の死後ずっと命日三十日を毎月まもって、今まで食べたこともないカツ丼をかならず夕食に食べたというエピソードがいい。カツ丼は荷風が最後まで口にしたものだったからだと。
この藤蔭静樹のところで暴露している「断腸亭日乘」の創作部分がへーえです。
P.264
荷風日記中では、いたるところ後進の作家が大被害を受けていられるからそれにくらべれば、私の場合などは問題にすることもないかもしれぬが、私はそれによって荷風日記のお筆先のアヤの一端をうかがい知ることが出来た。
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47篇のなかで、いちばん胸に詰まったのは、冒頭の田中正造のところでした。わけても古屋信子さんの弟さんが亡くなったときのこと。明治時代を生きたお父さん。貧乏くじを引いたような、こんな官吏もいたのですね。いや、むしろこんな官吏の方が多かったのでしょう。
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あとがきから
P.285
不思議なことに幾十たび会っても、いざとなるとどこを取り上げていいか迷う印象もあり、たったいちどこっきり会っただけで、忘れ得ぬ強烈な感銘を与えられたひともあった。ほんとに人間とは人さまざま複雑微妙なものだと思う。
私は返らぬ人のおもかげを描きながら、知らず知らずに私自身の帰らぬ日を語ってしまったようだ。
その点〈私の見た人〉は私小説のコント(掌中篇)でもあると思う。そのせいか、ほんとに小説を書くよりはるかに骨の折れた負担だった。
なるほど、〈私の見た人〉は私小説のコント(掌中篇)でもある に納得しました。明治時代(後期)から昭和時代(前期)までの空気が出ています。ゆっくりゆっくり、少しずつ読みました。
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