生きるための読書 津野海太郎 新潮社 2024年12月20日 発行 221頁 |
津野さん好きな読者としては、本書を読みながら楽しい読書時間を過ごしていたのですが、(途中から)入院のくだりを読んでしまうと痛々しくてつらくなってしまいました。そこから再度読み返したところ、最初に楽しく読んだとこまでもが(今度は)つらい読書に変質してしまい、なかなか先へ進みませんでした。気づくと感情移入してました。
初出はスタジオジブリの雑誌『熱風』2022年12月号~2023年11月号に「もうじき死ぬ人」と題して連載したもの。ところが本にまとめる段階になって入院騒ぎが勃発したため、それから文章を書く作業ができなくなってしまい、なんとかまとめた本書の文章はなんだかゆらゆら揺れているみたいで、ますます志ん生の落語みたいな感じになっていました。
(P.196)「付記 階段からの転落とその後」では、「廃用症候群」としながらも「失語症状態」であるといいます。
文章を見ると、以前よりも、さらに漢字が減ってひらがなが増えた気がします。ますます自由です。たとえば、こんなぐあい。
P.196
〇もちろん、こうした状態で文章を書くのがしんどいのは事実です。ただし失語状態を強いられるのは、この「挨拶」の場合でいえば、「埼玉赤十字病院・埼玉メディカルセンター・リハビリ・脳卒中・失語症・廃用症候群......」といった名詞が多いのでね。これが同士や形容詞にまで広がったらお手上げだが、いまのところは、なんとかなりそう。
〇それよりも、むずかしいのは文章のリズムかな。せめて旧著『最後の読書』程度には大人っぽく仕上げたい。そう思ってはいても、あせったり、調子がよすぎたりで、はたして生きているうちにじぶんの頭脳を調整し、おだやかに書くことができるようになるのかどうか。まア、やれるだけやってみるしかないのでしょうがね。
〈せめて旧著『最後の読書』程度には大人っぽく仕上げたい〉というところで、ぐっと詰まってしまいました。こんな書き方をする津野さんは初めてです。
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【目次】 もうじき死ぬ人 生きるための読書 静かなアナキズム 付記 階段からの転落とその後 |
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本書のメインは「生きるための読書」(3~8章)と「静かなアナキズム」(9~12章)でしょう。
スタジオジブリの『熱風』から新連載の原稿依頼を受けて、何を書くか考えた結果が「お祭り読書」だったのだそうです。
津野さんのいう「お祭り読書」とは「直接間接に関わる本を、ひとまず満足できるだけの量、むちゃくちゃに読む」のだそうです。それが「なにか新しい問題にぶつかるたびに」実践してきた津野さん流の対処の仕方だとのこと。
そこで、すぐに頭に浮かんだのが、伊藤亜紗さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』から最近感銘を受けたこと。そをれをきっかけに、これまで敬遠していた若い研究者たちの本をポツポツと読むようになり、伊藤さんとおなじ年頃の「書く人」と「読む人」のあいだで、いつのまにか「生きるための読書」ともいうべき新しい読書週間が生まれつつあることに気づいた。
この発見が「アナキズム」という思想(媒介者は鶴見俊輔さん)を思い出す。
【津野さんの紹介している「若い研究者」とは】
〇伊藤亜紗(1979年生)『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(2015年刊・35歳)
〇斎藤幸平(1987年生)『人新世の「資本論」』(2020年刊・30歳)
〇森田真生(1985年生)『数学する身体』(2015年刊・30歳)
〇小川さやか(1978年生)『チョンキンマンションのボスは知っている』(2019年刊・41歳)
〇千葉雅也(1978年生)『勉強の哲学』(2017年刊・38歳)
〇藤原辰史(1976年生)『歴史の屑拾い』(2022年刊・45歳)
この6人(の著書)を順繰りに読んだ「個人的な勉強ノートのようなもの」が第3章~第8章までの「生きるための読書」です。内容は6人について、それぞれひとつの章を立てて説明します。本書の特徴として、津野さんがどのように彼らの著書と出会い、どう考えたか、その結果としてどんな方向へと興味や考えが向かっていく(いった)のか、丁寧にその過程をなぞるように記述してくれます。
【追加の本】
上記【津野さんの紹介している「若い研究者」とは】で紹介している以外の書名を列記します。上で紹介している書名は、それぞれの著者で最初に津野さんが読んだ本なのだそうです。
〇伊藤亜紗『記憶する体』
〇斎藤幸平『未来への分岐/資本主義の終わりか、人間の終焉か』
『歴史の話』(網野善彦・鶴見俊輔、朝日選書、2004年)
〇森田真生 YouTube「数学とは?」『僕たちはどう生きるか』(集英社、2021年)
〇小川さやか『「その日暮らし」の人類学』(光文社新書、2016年)
〇千葉雅也『現代思想入門』(講談社現代新書、2022年)
〇藤原辰史『ナチスのキッチン』(吉川弘文館)、『稲の大東亜共栄圏』(吉川弘文館)、『分解の哲学』(青土社)
彼らに共通するのは何か? 津野さんはこう説明します。
P.111
本も読むが、それぞれに固有のやり方で、じつによく動く。のみならず、東大や京大で専門教育を受けた「物を知っている人間」でありながら、なおかつ「物を知らない人間」への「やさしさ」も捨てない。
――ここにいたって、この国の知識人の気風がやっと変わりはじめたみたい。そう私には感じられるのだが、いかがなものですかな――と、若い方々はともあれ、まずは長い戦後をともに生きてきた同輩のご老人諸氏にそうたずねてみたい。その上で、とうに過ぎ去った「私たちの時代」を再考してみる。そういう楽しみ方もあるんじゃないかしら。
津野海太郎さんの文章はやっぱりうまいな! と思わされるのは次のようなところです。
P.101
ただし養老も千葉も東大での秀才なので、その名うての秀才が「自分の内なるバカ」にういて率直に語るのと、たとえば私大出の鈍才(たとえば私)がおなじことをやるのとでは、どうしても、ちがう感じになってしまう。後者に比べると、前者の「バカ」には知的(ときに権威主義的)なゆとりある。
〈たとえば私大出の鈍才(たとえば私)〉なんてフレーズ、まるで落語です。(あるいは今風でいえば、漫才の台本か)。
そのしばらく後で、かつての演劇青年だった津野さんが風呂敷を広げたところ
P.106
ここまでやさしく説明してもらえれば、私の若年期にも、これに通じる「現代」があったことに気づく。
たとえば、この(ドゥルーズの哲学の)「二項対立の脱構築」という定義に接して、私は大戦末期の日本で花田清輝が構想していた「二つの中心を持つ楕円」のイメージを思い出した。「一点を黙殺し、他の一点を中心として颯爽と円を描く」よりも、「矛盾しているにも拘わらず調和している、〔二つの中心を持つ〕楕円の複雑な調和のほうが、我々にとっては、いっそう、うつくしい筈ではなかろうか」という「楕円幻想」(『復興期の精神』一九四六年の一節――。
戦後、この楕円幻想は「前近代を否定的媒体として近代を超える」という主張に転じて花田たちの芸術運動(記録芸術運動などの建築にはじまる一九八〇年代のポストモダン運動の先駆)をささえた。ほかにも鶴見俊輔の「マチガイ主義」(『アメリカ哲学』)や、堀田善衛の「第三の道」(『広場の孤独』)など、「二項対立の脱構築」に通じる思想的な試みは、この時期にも、さまざまなかたちで存在していたのです。おかげで、この時期に十年ほど遅れて大学にはいった私も、かれらの試みから、じぶんなりに「秩序からズレる」しかたを学ぶことになった。
また「差異=秩序からのズレ」という点では、大戦後、日本をふくむ世界各地の演劇界に広まったドイツの劇作・演出家、ベルトルト・ブレヒトの「異化」の演劇論も同様――。
この論で、ブレヒトはアリストテレスの「悲劇論」以来の「感情移入=同化」を重視する伝統的演劇の「秩序」を廃し、感情移入に頼らないドライな「異化」の演劇を提唱した。そこでは「それまで当然と目されていたこと」をひっくり返し、(略)
1960年代演劇青年の面目躍如といった感じ。なにしろアングラ劇ですからねえ。
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第9章~12章までの「静かなアナキズム」では、鶴見俊輔さんを紹介しながら、なぜ今、アナキズムなのかを説明します。
あくまでも津野さんの個人的な体験にもとづき、ブレイディみかこさんの著作との出会いから説き始めます。
『アナキズム・イン・ザ・UK――壊れた英国とパンク保育士奮闘記』(Ele-king books、2013年刊)
『他者の靴を履く――アナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋、2021年刊)
つづけて、他の著者へ
文化人類学者・松村圭一郎『くらしのアナキズム』(ミシマ社、2021年)
栗原康『アナキズム――一丸となってバラバラに生きろ』(岩波新書、2018年)
森政稔『アナーキズム――政治思想史的考察』(作品社、2023年)
デヴィッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』(以文社、2006年)
同『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店、2020年)
ジェームズ・C・スコット『実践 日々のアナキズム』(岩波書店、2017年)
マルセル・モース『贈与論』(1925年刊)
モースの理論は「他の人類学者たちを束にしたよりもアナーキストたちに影響力を持つことになった」とグレーバーに言わせたほど重要であると津野さんは書いています。(P.147)「なかんずく一九二五年刊行の『贈与論』――。」
ブレイディみかこ『労働者階級の反乱』と並べて紹介するのが、頭木弘樹『絶望読書』。この取り合わせ、妙な味があります。両者とも読んだことありますが、この二人を並べるというのは意表を突かれました。
津野さんが取り上げた鶴見俊輔の「小さな日常」とこれまで紹介してきた(ミレニアム世代の)若い人たちとが、つながるのではないか、という津野さん流の論理構築が、どうもうまくここで説明できそうにありません。そんなにむずかしいことは言ってないのですがね。
書店にのっぺり並んでいる自己啓発本とは対極にあるような津野さんのうねるような文体にやられてしまったようです。(そと海の漁場に着いて)エンジンを切った釣り船がうねる波に揺られはじめ、なぜかそこに寝不足で乗っている自分は、ひどい船酔いに襲われるとでもいうような気分。目が回ります。
『本の雑誌』で連載がはじまってよろこんでいた「続・百歳までの読書術」で目にした文体に、なんだかますます前よりもみがきがかかってきているぞと思っていました。それが今度はねじれてきていても、それをそのままどうぞと提示してしまう「私小説」のような津野さんのお仕事。たとえば
P.220
今年の五月七日に退院してから早くも六か月がたった。その間、浦和の街の外に出たのは辻山さんの「Title」を訪ねた一回と、ほかには、この本を編集してくれた新潮社の須貝利恵子さんと、次の本を準備してくれている宮田さんが、わが家を何度か訪ねてくれただけ。
この文章の2番目の文。主述の呼応がわかりません。「浦和の街の外に出たのは」が主部だとして、述部がつながらないのです。日本語として、文脈が乱れています。それをわかっていて、(あえて)ここに載せたのでしょうかねえ。
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「アナルコ・サンディカリズム」を説明するところ(P.134~135)なんて、池上彰さんも顔負けですよね。
あるいは、(P.139~)1881年サンクトペテルブルクでのナロードニキ(人民の意志派)によるアレクサンドル二世の暗殺から現代の無差別テロまでを説明したところ。日本赤軍派のテルアビブ空港乱射事件などを交えながら手際よくまとめて説明してくれます。
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突然ですが、津野海太郎さんのこれまでの活動歴紹介。(P.184)
〇本や雑誌の編集(新日本文学・晶文社)
〇演劇(六月劇場・黒テント)
〇大戦後の日本人が敬遠していた東南アジアの音楽や演劇との接触(水牛楽団・水牛通信)
〇まだ先がまったく見えなかったデジタル文化への積極的な関与(『季刊・本とコンピュータ』)
こうしてみると、個人的な体験でいえば、津野海太郎さんに初めて興味をもったのは、『季刊・本とコンピュータ』ですから、いちばん最後の活動ということになりそうです。ソノシート付きの晶文社刊行『ジャニス ブルースに死す』は好きでしたが、そこから津野海太郎さんには(当時)たどりつけませんでした。
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