P19
●読者アンケート
私の上半期ベスト1!
『SF少女マンガ全史 昭和黄金期を中心に』
長山靖生
筑摩選書
(途中略)
「伝説の名作・大作はこうして生まれた!」との帯も頼もしい本書の真のキモは、〈第5章 孤高不滅のマイナーポエットたち〉の、岡田史子への(ありがちな神格化とは全く別次元の)心をこめた〝手紙〟であると思う。レジェンド達の青の時代に突如出現し、難解・芸術的な作風で周囲に大影響を及ぼすも、自身を眼高手低と責めつつ早々に筆を置き、のちの再起も叶わなかった〝幻の天才〟。
に宛てて、流行が何だ、売り上げが何だ、「少なくとも他人の迷妄ではなく、自分自身の迷妄と向き合いもがくのが、真の創作者だと私は思う。」(p343)と記す著者の檄、祈りが、泉下の岡田氏に、また創作を愛する人・志す人に、かれらの作品を心待ちにする多くの人々の胸に届くことを、本書に挙げられた数々の名作を実はあんまり履修していない(!? 読んでないのに語る!?)胡乱な未読の民の分際ながら、心より願ってやまない。(松島敦子・主婦 更年期の終り・桐生市)
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P21
『女性の階級』橋本健二、PHP新書
(小林茜音・25歳・桶川市)
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P24
SFベスト5
未来のアラビアンナイトが
飛びきりに面白い!
●牧眞司
2024年度上半期ベスト10
(1)ロボットの夢の都市(ラヴィ・ティドハー、茂木健訳/東京創元社)
(2)感傷ファンタスマゴリィ(空木春宵/東京創元社)
(3)奏で手のヌフレツン(酉島伝法/河出書房新社)
(4)プライベートな星間戦争(森岡浩之、星海社FICTIONS)
(5)わたしは孤独な星のように(池澤春菜、早川書房)
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P36
●映画と小説のビミョーな距離
『太陽がいっぱい』が
いっぱい(前編)
●三橋曉
作家を志したことがないので、ハウツー本としての効用は不明だが、読書中にふと浮かぶ由無(よしな)し言(ごと)をつらつら考える時、示唆に富み、有益なヒントを与えてくれる座右の書に、デイヴィッド・ロッジの『小説の技巧』(白水社刊)がある。その末尾には、ずばり〝結末〟がテーマの章があって、物語の結末など所詮は読者から簡単に見破られてしまう付け足しに過ぎないと書かれているのだから、ニヤリとさせられる。
十九世紀の作家は、出版社の商業政策から往々にしてハッピーエンドを強要されたという。その影響も後を引いたのだろうか、ジェイン・オースティンの作例やヘンリー・ジェイムズの風刺的評言を引用しつつロッジも語っているように、読者も終盤にさしかかると、物語がどう終わるか、残りのページの分量から見透かせてしまう恨みがある。
そういったジレンマは、勧善懲悪や因果応報で幕が下りる物語は大半で、大衆向けの保守的な読み物だったミステリというジャンル小説においても幾許かのものがあったに違いない。そこに登場したパトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』(一九五五年)は、とりわけその結末においてすこぶる革新的(「革新的」に傍点)な作品だった。
(以下略)
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P60
本、ときどき映画
孤独な日常を変える
運命の出会い
♪akira
タイトルのとおり、本と映画をそれぞれひとつずつ紹介しています。
本は、『エレノア・オリファントは今日も元気です』(ゲイル・ハニーマン、西山志緒訳、mirabooks)。
映画は、『時々、私は考える』。紹介の後半を引用します。
ある場面で、事務仕事は得意だから好きだというフランにロバートは怪訝な反応をするのだが、事務が得意で好きだなんて素晴らしいではないか。世の中、創造的な仕事がもてはやされがちだが、事務社員がいなければ会社は成り立たない。世界中のエレノアとフランに幸あれ!
時代時代で、もてはやされる流行(はやり)があります。それは最新のファッションであったり、ブランドだったり食べ物、音楽など多岐にわたり、価値観にもありそうです。
そこから、《世の中、創造的な仕事がもてはやされがちだが》という言い方がでてくるのでしょう。
職業はクリエイターって、いったいなんのことやら。コンサルというのもうさんくさかったが。
映画『時々、私は考える』の公式X(エックス)がありました。リンク、こちら
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P72
雑誌のほそみち
つげ義春を語る
長嶋親子の談義が面白い!
urbansea
「東京人」2024年6月号、都市出版
urbanseaさんの文章に引き込まれ、あれよあれよという間に、最後まで読み進んでいました。
インバウンドでにぎわう東京のゴールデン街やションベン横町などの喧噪や映えと無縁の情景が並ぶのが『東京人』6月号だといいます。特集「つげ義春と東京」。つげ義春がこれまでに描いてきた町工場や河原、架道橋に湯治場といった寂寥感のある風景を取り上げていると紹介します。
たとえば立石について。現在酒場巡りで取り上げられることの多い立石ではなく、往事の〈年中、煤煙と様々の臭気におおわれている〉町工場の街。
特集の目玉として紹介しているのが、佐野史郎×つげ忠男×高野慎三の鼎談と、長嶋有×長嶋康郎の散策を取材したもの。
長嶋康郎は、古道具屋「ニコニコ堂」店主であり、芥川賞作家長嶋有の父であり、そして「無能の人」のモデルと思われていた人物であるとする。
P72
長嶋の父は神社の骨董市に店を出したおりに、つげと出会う。つげが趣味とするカメラも並べていたが、そのとき、彼が買ったのは2千個以上の牛乳瓶の蓋であった。その逸話を、売るほうも買うほうも奇特な話だと息子は評する。
また、つげの妻が亡くなったおり、遺品整理に呼ばれた父は売ったときのままの大量の牛乳瓶の蓋を発見する。蓋で何をするわけでもなく、買ったという行為や手元に持っていることが、つげにとっては価値があったのだろうと息子は論じる。
そういえば長嶋のブルボン小林名義での著書『ぐっとくる題名』に『つげ義春全集』を取り上げた回がある。その最終巻に付けられた自筆年譜についての、〈ある年など「スーパーマリオブラザーズ2をクリアーする」とだけ書いてあった〉との一文を忘れられずにいるのだが、その一年はつげにとってそれだけの都市であることに価値があるのだろうと、今にして気づきもした。
牛乳瓶の蓋2千個の話(牛乳瓶の蓋は2千枚ではないのか?)も忘れられなさそうだが、そのつぎの〈「スーパーマリオブラザーズ2をクリアーする」とだけ書いてあった〉との一文を忘れられずにいる〉というurbanseaさんの人柄のほうが、(私にとっては)忘れられないでいます。
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P73
本の雑誌の本(広告)
坪内祐三
日記から/50人、50の「その時」
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P98
●サバイバルな書物(106)
たった一個の細胞が
生まれて別れて幾億年
多様化と死が生命だ
=服部文祥
生命や意識とはなんなのかに言説空間から迫ろうというのが、本連載の趣旨である(脱線ばかりだが)。話題の二冊
『生物はなぜ死ぬのか』
『なぜヒトだけが老いるのか』
小林武彦
講談社現代新書
装丁・中島英樹
は直球ド真ん中なのだが、ちょっと読むのは躊躇していた。というのも
『サバイバルボディ』
『時間の終わりまで』
『流れといのち』
『若返るクラゲ 老いないネズミ 老化する人間』
『あなたの体9割が細菌』
その他アンチエイジングのハウツー本で、現時点で生物学的にわかっていることは、おおよそ頭に入っている(つもりだ)し、それら知識に自分の登山体験を合わせて、私的生命観とアンチエイジングの方法論も持っている。(以下略)
毎度の繰り返しになるが、そもそも生命とはなんなのか、その根本的なところを我々はまだ解明していない。どのように生まれたのか、生まれたのではないならどこから来たのか、科学はまだわからないのである。好条件が重なって自己複製能力を持つアミノ酸の塊が生まれたのだろうと推測されているが、生命が誕生する確率のたとえとして、本書にこう書かれている。
〈25メートルプールにバラバラに分解した腕時計の部品を沈め、ぐるぐるかき混ぜていたら自然に腕時計が完成し、しかも動き出す確率に等しい〉
ななかなたとえであることに感動!
そうかそうか。
生命や意識とはなんなのかに言説空間から迫ろうというのが、本連載の趣旨であ
(っ)たとは、たったいま、知りました。
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P120
三角窓口
▲神保町史跡旧跡案内番外編その二は、帰ってきた「我が輩は猫であるの碑」。お茶の水小学校と隣接する錦華公園の改修工事のため、忽然と姿を消し漱石ファンをやきもきさせたが、本年四月、新校舎の竣工と新公園の開園にともない無事に帰還。「猫」の書き出しが刻まれた石碑には「明治十一年、夏目漱石 錦華に学ぶ」とも掘られていて、漱石の在籍が今も学校の誇りであることがうかがえる。錦華小学校は一八七三年(明治六年)開校、一九九三年(平成五年)に小川小学校、西神田小学校と統合し、お茶の水小学校となった。ちなみに併設するお茶の水幼稚園の園歌は谷川俊太郎・作詞、山本直純・作曲である。
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P128
タイムトラベラーさん
いらっしゃい
並行世界を生き続ける感覚
藤岡みなみ
あらゆることは今起こる
柴崎友香
医学書院
BD・松田行正+倉橋弘
この本はタイムトラベル本に違いない、と思ったのは、帯の「私の体の中には複数の時間が流れている」という言葉が眼に入った瞬間だった。医学書院のケアをひらくシリーズ新刊『あらゆることは今起こる』は、小説家の柴崎友香さんがADHD診断をもとに自分の内側で起こっていることを観察して綴った本だ。実は、以前から柴崎友香さんはタイムトラベラーなのではと感じていた。私はオンラインと間借りのミニ店舗からなるタイムトラベル専門書店という本屋をやっているが、SFや時間本というわけではない芝崎さんの小説を気づけば取り扱っている。
「私は今までに自分がいたいくつもの世界を、ずっと同時に生き続けている」と芝崎さんは言う。突然別の時間軸に迷い込んでしまったかのような時間感覚は、ADHDの特性にも当てはまるらしい。
(以下略)
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P130
●ホリイのゆるーく調査
圓生と米朝の全集CDを
取り込むのだ
=堀井憲一郎
今回は、いつも以上にホリイ節前回!!
落語のCD音源をパソコンに取り込む作業を再開している。
再会というのは、この落語国家的事業はいちど00年代の後半に取りかかられていたからだ。アスワンハイダムか黒部か、とも言われたこの取り込む作業は千日ほど取りかかり、いろんなデータを取り込んでいる最中に、ぷすん、と消えてしまったのだ。全米が泣いた。全米穀通帳が震えた。
落語CDの取り込みは、取り込んだうえに、データを変更していく。
演者の名前は、たとえば「三遊亭圓生」だと「圓生」と「円生」があって、それに六代目が付いているのと付いていないの、それも名前の前につくのと、うしろに(六代目)とついているのとかいろいろあって、それがみんな別のアーティストとして分けられるので、それでは世界が細かすぎて困るわけだな。
そういうのもいちいち統一して、書き直してデータとしてためていた。それが飛んだ。
それを一から入れ直そうかとおもいたったのが令和6年6月で、全米のショックからずいぶん時間が経ってしまった。
(以下略)
もちろん、わたしも落語CD(十数枚)をPCに取り込んではいます。ですが、いちばん共感をもったのは、音楽CDからの取り込みでした。
PCに音楽CDから取り込むためのアプリケーションをどれにするかで、違ってくるようですが、アーティスト名でフォルダを切られてしまうと、実に困った現象が起きてしまいます。iTunesはデフォルトだと、そうなってしまいました。
あるテーマに沿ったアルバムなんかだと、いろいろな演奏家が一堂に会していたりします。たとえばアコギでのソロギターとか。一枚のCDに1曲ごとに異なるアーティストが演奏していることが多いのですが、これをPCに取り込むと、フォルダがアーティストごとに作られてしまうために、元のCD一枚として再生できない? なんてことになり、とても困ってしまいます。
そうなってしまうと、検索するのも一苦労だったり。
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