本の雑誌2023年9月 みたらし見参号 No.483 特集=平凡社は本当に平凡なのか?

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本の雑誌2023年9月
No.483
みたらし見参号
特集=平凡社は本当に平凡なのか?

今度の特集はなぜ「平凡社」なんだ? と最初は疑問に思っていたのが、読み進めるにしたがって、そんな疑問はきれいに吹き飛んでしまいました。

平凡社の百科事典が売れた頃の好景気について、編集長こと嵐山光三郎さんがよく書いていました。平凡社は「お札を刷っているんじゃないか」と言われていたとか。それが会社にどれだけの貢献をはたすことになったのか。いちばんは社員を太っ腹に抱えたということでしょう。雑誌『アニマ』編集部のエピソードは数多く伝わっているようです。

もっとわかりやすいのが、平凡社の引っ越しと蔵書についてでしょう。まるで会社の景気を示すバロメーター。

◆四番町の本社ビル時代 地下二層にわたるおおきな図書室があった。日本の私企業最大といわれた蔵書量を誇り、専属司書(と補助のバイト学生)が常駐していた。
◆三番町の貸しビル時代 地階の半分以上が図書室だった。司書もいた。
◆碑文谷の自社ビル時代 地下のほとんどが図書室だった。その一隅には荒俣蔵書を収納する金網張りの書庫が作られた。
◆白山時代 図書室はワンフロア。手狭になったので棚を抜いて校閲のスペースにした。荒俣部屋はこの時代まであった。机が一つあって四畳半くらいか。

 ◆  ◆

一番面白かった記事が嵐山さんのものでした。

P28
月刊「太陽」繁盛記
◎嵐山光三郎

平凡社に入社したのは昭和39年、新入社員は4人だった。

建物は千代田区四番町のモルタル三階建てで中庭と社屋は蔦がからんだ高い塀で囲まれていた。元満鉄副総裁公社だった。明治に建てられた古い西洋館で、中に入れば床の板にほこりがたまり、廊下は迷路となって折れ曲がり、そこに古書や史郎が積まれ、そのすきまにいろいろな編集部があった。

二百人ほどの社員は、昼休みになると中庭すみの掘っ立て小屋の食堂へ集まった。

社員は愉快な無頼漢ばかりで、頭を手ぬぐいで巻き、出版各社を転々と流浪してきた職人肌が多かった。怪人二十面相と鼠小僧が入り乱れ、血のメーデー事件の被告がいた。 空手道場主人、剣術家、右翼二名、反日共系勇士八人、日共系知識人二十三名、詩人四名、自称作家五人、アナーキスト一名、ダダイスト一名、大学教授四名、踊りの師匠一名、占星術家一名、昆虫学者一名、祈禱師一名、僧侶二名、尺八奏者、ラーメン屋、悪者(ワルモノというギャンブラー)一名、行方不明者二名、連れ込み旅館主人、あといろいろとりまぜて、正体不明の徒が虫食いのような巣窟を作っているのだった。

(例の掘っ立て小屋の食堂で)サンマを食べていると、大学時代にフランス語を習った安東次男先生がいた。「お前なんでここにいるんだ」と訊かれて「新入社員ですよ」と言うと、すぐ横にいた老博士に「こいつは俺の生徒だ」と自慢した。その博士は世界大百科事典編集長の林達夫先生で「ぼくは今晩ね、女優の有馬稲子さんとデートするの」と自慢した。安東先生は美術全集の編集委員(嘱託)をしていた。

先輩の編集者は各分野の専門家で、もと執筆者だった。ベストセラーになった国民百科事典の項目は社員が手わけして書いたから稿料がかからない。労組委員長上がりの総務課長は「わが社は事典を刷っているのではない。札束を印刷しているのだ」と自慢した。
という次第で自著を刊行している編集者が多かった。「太陽」初代編集長は民俗学者の谷川健一で、柳田民俗学の継承者であった。

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どの記事をとっても、あきれるばかりでした。お札を刷っていたというくらい景気のよかった資産を使って、荒俣さんも平凡社も、幸せな時代でした。荒俣さんの有名な逸話、帝都物語でもらった一億円があっという間になくなったというのが、本人の口から聞けます。ヨーロッパの数百万円の古書を買いまくったという例の話です。