京都で考えた 吉田篤弘 ミシマ社 2017年11月03日 初版第1刷発行 125頁 |
寸法 18.8 x 12.8 x 2 cm で、厚みが 125ページ(奥付等をいれると128ページ)のコンパクトな本です。手のひらに乗せたとき、とてもしっくりします。カバーデザインもいい。なにしろ書き手がクラフト・エヴィング商會の吉田篤弘さんですから。出版社はミシマ社。必然的に手にしたく(読みたく)なります。
京都に旅をして考えたことを綴った本。
P126
本書は書き下ろしです。
とありました。
順序は逆になりますが、冒頭で、以下のように記しています。
P8
京都は百万遍にあるほの暗い喫茶店で、角砂糖付きのコーヒーを飲みながら、買ったばかりの本のページをめくっている。
昼下がりの新幹線で東京からやって来て、古本屋を三軒ほど渡り歩いたら、ほどなくして夕方になっていた。
京都にどんな用事があるのかと云うと、さして用事はなく、いつもそうなのだが、ひとりで街を歩いて考えたいと思っている。ふと気まぐれが起きて仏像などを参拝することもあるかもしれないが、行くところはあらかた決まっていて、古本屋と古レコード屋と古道具屋である。あとは喫茶店と洋食屋だろうか。わざわざ京都まで来てどうして、と思う人もいるだろうけれど、自分にとって京都という街は、そういった店々を停留所にして、あてどなく歩きまわることに尽きる。そして、歩きまわることが、そのまま考えることになる。
かつて、JJおじさんこと植草甚一翁がやっていたことを、そのまま京都に場所を移しています。気分を変えて京都まで行けるだけ、豊かになったということでしょうか。そういえば、しばらく前に、どなただったかが『本の雑誌』の連載記事で、そっくり同じことを書いていて、贅沢だなと思ったものです。金銭的なだけでなく、時間もです。おお、「そういえばシリーズ」の追加です。「晩鮭亭」さんは日帰りの京都で、自転車を使った古本屋巡りをしたという記事を読んだような。
閑話休題。かつて電車のなかで、本を読んでいる人が数多くいました。(マンガ本を読んでいる人もいましたが)。そのころには、わざわざ京都まで出向かずとも、普通に都内を散歩して、古本屋と古レコード屋と(古道具屋じゃなくて)雑貨屋に立ち寄っていました。そんなのは行動パターンとして、よくありました。植草さんがランチョンでビールを飲みながら、その日に買った古本を点検する話を読み、喫茶店の自分と比べて、向こうは大人だなと思ったものです。まあ、いい歳にはなったけれど、久しぶりに出かけた昨日も、東京古書会館で買ったばかりの古本を点検するときはコーヒーでしたが。
P18にイノダコーヒー三条支店の名前が出てきて、おやまあ! でした。高田渡さんのコーヒーブルースは70年代はじめのことです。
◆ ◆
P10
流れの邪魔になりかねない章題や見出しといったものをページの地中に埋め込むことにした。代わりにアスタリスクをひとつ、目印として置くことにする。しかしそうなると、あとになって、さて何が書いてあったか、とぼく自身も首をかしげてしまいそうなので、目次はいつもどおりつくり、章題や見出しはそこで確認できるようにしてみた。
誰が呼んだか、「見えない目次」。
というのが、とても新鮮でした。
P73「空間把握能力」「空間把握症」のはなし、なんとなくわかります。似たところがあるような。
P78 ビートルズの「ホワイト・アルバム」の通し番号のはなし、なつかしや。
「本当にそうか」のはなし、答えは2つとは限らないのではないか。
P61 ソクラテスもプラトンもガリレイもこの方法(問答法)をとったというのは、そうかもしれません。けれども、P62 芥川の『藪の中』では、答えが2つではないし、まして、P58 でいうように「小説」では2に限定できないでしょう。
「本当にそうか」は、P102 でもまた出てきます。で、思い出してしまうのです。この「本当にそうか」で連想してしまうのは、中上健次のことです。酔った中上健次は、酒場のカウンター席で、こちらの顔を覗き込むように「本当にそうか」「(おまえは)本当にそう思っているのか」と聞いてくるのだそうです。そのたびに、聞かれた方としては、ひやっとしたといいます。この逸話、自分がときどき調子に乗っているとき、思い出します。もちろん中上健次などと、一面識もありませんでしたが。
ただし、吉田篤弘さんのいうつづきのはなし「そもそも」には、まったく同感です。この「そもそも」に行きつくところ、いいです。
P106
忘れられていくものを引きとめようとすることも、本を読むことも、決めつけられたものに「本当にそうか」と疑問を呈することも、小説を書くことも、そして、本の中から言葉を見つけ出してくることも、すべて「そもそも」を知りたくてつづけてきた。
P108 掌編小説『スリンク』、面白く読みました。「そもそも」、掌編小説なる言葉を目にしたのは、川端康成の掌編小説以来です。星新一のショート・ショートを予想しながら読み始めると、まったく違っていました。こっちのほうがはなしも長いですし。最後の終わり方(開高健や谷沢永一のいう勘所)、ここがいい。守ってくれるイツキちゃん。目は一重ですよね。
で、じつは本書でいちばん強く印象に残ったところが、「あとがき」のさいごのところでした。
P125
これは秘密だけど、何かつらいことがあったときは、その写真を見ることにしている。
ずるい! って思いましたよ。
その写真というのは、
P124
何年か前に京都精華大学で講演のようなものをする機会があり、正確な数は覚えていないけれど、二百人くらいの来場者があった。学生さんだけではなく、京都にお住いの方たちが沢山来てくださった。
皆さんからいただいた質問に答えるかたちで話をしたのだが、はじめて京都の人たちと話が出来たような気がした。みんな、とても熱心に聞いてくれて、こちらも話し終えるのが惜しいくらい、あたたかく気持ちのいい時間になった。
嬉しかったので、ステージの上から観客の皆さんの写真を撮った。スパイのようにさっと携帯を取り出し、ほんの一瞬、一枚だけ撮ったのだが、こちらを向いている皆さんが隅から隅まで笑顔だった。
この先が、さっきの「これは秘密だけど~」につづきます。ずるいでしょ?
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