文豪お墓まいり記 山崎ナオコーラ 文藝春秋 2019年02月25日 第1刷発行 233頁 |
雑誌に掲載されたコラムなどは別として、山崎ナオコーラさんの小説もエッセイも読んだことがありませんでした。今回が初めて。
どうしてこの表紙? と思わずにいられない表紙カバーにまずびっくり。このお二人、谷崎潤一郎と永井荷風なんです。(どっちがどっちか? 予想くださいませ。)内容はおそらく「掃苔録」なんだろうと、勇気をもって手にしました。裏表紙を見ると、「文豪」もずいぶん軽くなったものだなと思う名前もありますが、興味をひかれます。
文豪26人
中島敦/永井荷風/織田作之助/澁澤龍彦/金子光晴/谷崎潤一郎/太宰治/色川武大/三好十郎/幸田文/歌川国芳/武田百合子/堀辰雄/星新一/幸田露伴/遠藤周作/夏目漱石/林芙美子/獅子文六/国木田独歩/森茉莉/有吉佐和子/芥川龍之介/内田百閒/高見順/深沢七郎
それに、初出誌だって三大文芸誌のひとつ、あの「文學界」です。
「文學界」2015年3月号~2017年3月号、8月号
いまどき「文學界」など、手にしてくれる奇特な読者がどれだけいるものやら。
これまでに何冊か掃苔録は読んだことがありましたが、こんな直裁なものは初めてでした。大御所荷風散人をはじめ、著者の蘊蓄を傾けるとか、こんなことくらい知ってて当たり前だ(だからオレは余計な説明なんぞせんぞ)みたいなのが多かったよう。参考に、このブログがいい例みたいな。
この表紙の違和感とこれら26人を文豪と呼ぶことをミックスしたら、こうなりましたみたいな感じでしょうか。
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作家と作品との関係は、互いに似ているようでいて、必ずしもそうとばかりいえない。では、作家と墓との関係は、これもまた一概にはなんとも。いかにもあの作家に似つかわしいと思えるのもあるだろうし、思いがけないほどにイメージと違っていたり。
そういえば、予想外に多摩方面に墓のある作家が多かったように思えました。下町出身でも、とか。
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扱う「文豪」の回によって違いますが、同行者がおもしろい。ご主人だったり、編集者、ベビーカーに乗せたお子さん、友人西加奈子さんの回もありました。ここの編集者って、文學界の編集者ということですよね。いったいどんなやりとりをしているのでしょうか。
本書を読んで、いちばん感じたのが、ストレートな書き方でした。どの回も、それぞれの作家についてふれていますが、相手によってその分量や熱量に違いがあります。短いながら、熱心に作家論や作品論を展開しているところがあっておもしろく読めました。どれも実作者としての視点です。
山崎さん自身、見当違いの感想を聞かされることもあるといいます。
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谷崎潤一郎の回で、「細雪」に描かれた場所を実際に歩いてみて、
P.58
旅行が楽しくないこともないのだが、どう考えても読書の方が面白い、(以下略)
続けて、「吉野葛」にからめて
P.59
小説は読者が思う以上に虚構だ。むやみに現実とリンクさせようとする努力はばかばかしかった。
すると、アニメでの「聖地巡礼」などというのは、いかかがなもの?
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有吉佐和子の回で、
P.195
私はグループというものすべてが嫌いだ。だが、グループにまったく関わらずに生きることもできていない。
べつのところでは、性別で区別されることも嫌いだとありました。この手のことについては、かなり強く主張しています。
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本書を読んで、いちばん目をひいたのがストレートに意見を述べているところです。どの回も、それぞれの作家についてふれていますが、相手によってその分量や深さに違いがあります。短いながら、熱心に作家論や作品論を展開している場合があっておもしろく読めました。どれも実作者としての視点です。
山崎さん自身、見当違いの感想を聞かされることもあるといいます。
芥川龍之介の回で、谷崎との「小説の筋」を巡る論争にふれながらの意見。
P.205
小説を発表すると、「これが正しい唯一の小説だと作者が主張している。他人の作品に対する批評だ」という捉え方をされることがあるが、違う。「自分が小説を書くならこういう仕事をするが、他の人のやっている仕事も面白く読んでいる」と、大抵の作家が思っている。私も、自分が小説を書くときは淡々とした文章を紡ぐようにしているが、読者としての自分は濃い物語で進む物語も好きだ。
P.206
芥川の作品で私は、「蜜柑」と「奉公人の死」が特に好きなのだが、これにも筋は強くある。だが、傑作たらしめているのは、美しい文章と鮮やかな情景描写だ。芥川は同時代の作家の中で図抜けて文章が上手い。研ぎ澄まされている。
他の作品でも、善悪の概念がはっきりしているものでさえ、それを伝えるために文章を綴っているとは決して感じられない。むしろ、美しい文章を書くために筋を利用しているだけではないか、と思える。
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読んでいて、ときどき??わからなくなることがありました。
「深沢七郎」の回で
P.230
波瀾万丈の人生だが、年表を眺めていると、意外にも、文学に真剣に取り組んでいる姿が見えてくる。一番やりたかったのは、やはり小説なのではないか。
「以外にも、文学に真剣に取り組んでいる」に、ひっくり返ってしまいました。「一番やりたかったのは、やはり小説なのではないか」って、いったい、このひとはなにを言っているのか、??めまいがします。
で、違和感をおぼえながら読み返すと、『楢山節考』についてのところで
P.227
(おりんは)息子のために死んだのではない。美学のために死んだのだ。(以下略)
P.228
人間は、死ぬ間際の際の際まで個性が漲(みなぎ)っているのだ。
とありました。ここでの「個性」って、なに? それよりも「美学」って??
作品はテクストとして、どんな読まれ方をしてもかまわないのでしょうか。『楢山節考』が中央公論新人賞の審査委員たちに衝撃を与えたのはなぜだったのか。
こちらの「見当違いの感想」なのかもしれませんが。
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