[NO.1552] 物理学者のすごい思考法

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物理学者のすごい思考法/インターナショナル新書067
橋本幸士
集英社
2021年02月10日 第1刷発行
221頁

週刊誌の書評で見つけて、読んでみた。すると、どこかで前にも読んだことのあるような気がしてきた。おかしい、そんなはずはない。本書は短い掌編なみの数ページからなるコラム集だ。そのいくつかを読み進めるうちに、やっと原因がつかめてきた気がする。これは作家森博嗣さんのエッセイに似ている。

元名古屋大学工学部助教授だった森さんのエッセイ(場合によっては小説)に使われているのと共通する言い回し(?)が、物理学者の業界ジョークだったのだ。本書のあたまの部分から、さわりをいくつか抜粋します。

P14
 どうも、専門性は考え方を固定化する傾向があるようだ。よくある理系ジョークに、花火大会での会話で専門がバレる、というのがある。美しい大きな花火が上がった時に、「今のはマグネシウムが多いな」とか言ったら化学系、「音の遅れから発火点は2キロ先」とか言ったら物理系、「仰角が30度だから三角関数が使いやすい」とか言ったら数学系、といった具合である。実はこの話はジョークでもなんでもなく、実際にあった話なのであるが、それはともかく、(以下略)


「理系ジョーク」という単語とその内容が、いかにも森さんのエッセイや理系研究者設定の小説に出てきそう。さんざん、専門的な例を列挙したあげく、「それはともかく」で、つなぐところなど、森さんの書くものとかわらない。

P44
 よくある物理学者の話し方を嗤(わら)うジョークに、「あそこに牛が見えますね。さあ、牛を球だと考えてみましょう」というのがある。物理学者の僕にとって、なぜこれがジョークなのか、全くわからない。これが近似病の症状である。おそらく僕の同僚の物理学者も皆、同じ病気にかかっているだろう。
 ちなみに、物理学者も社会人である。近似病にかかっていても、「牛を球だとしてみましょう」に類したことを一般の場で言い出したら、失笑を買うことを経験的に知っている。つまり、たとえ近似を頭の中でやっていても、言葉にはしないだろう。(以下略)

牛を球だとするかどうかは、ともかく、語尾の「~てみましょう」というあたりが、なんとも似ている。学会の分科会で発表する口調とでも言ったらいいでしょうか。おかしかったのが、「一般の場で言い出したら、失笑を買うことを経験的に知っている」というところ。つまり、実際に口にしてしまい、失笑を買った経験が(自分に)ある、または、そうした(物理学者が失笑を買っている)光景を見たことがあるのだ。なんだか、こちらの文体まで似てきてしまう。

ここであえて「ジョーク」という表現を使っているのは、少なくとも自分(著者である橋本さん)は、専門的な世界に閉じこもった狭い視野の持ち主ではないですよ、といった客観性の持ち主(つまりそれが社会性のある人間ということ)であることを暗黙のうちに主張していることになる。

こちらが数字そのものや学生時代の悪夢である数学という教科(テストの赤点)に、なみなみならぬ拒否反応をもっているからかもしれないが、次に紹介する回の話のインパクトが強かった。

P20 数字の魔力

数学の苦手な身にとって、これは名文であるとさえ思える。冒頭から引用すると

P20
 時々、数字に取り憑(つ)かれたかな、と思うことがある。4桁くらいの数字が、一番まずい。その数字を見た瞬間に、数字が意味することを探し始めてしまう。1桁、2桁程度の数字なら慣れ親しんでいる。3桁は、なんとかなる感じがする。でも、4桁はまずい。挑戦されている気がするのである。
 例えば、これを書いているのは2018年だ。まず一目見てこれは素数ではないから、がっかりである。その前年は2017年で、素数だった。素数であるかどうかを判定するには、その平方根までの素数で(以下略)

別の例では、著者が高校生だったころの話、切符を買って電車に乗っていた。その切符には4桁の整理番号が印字されていた。

P21
その数字の間に「+」や「÷」などの記号を入れて、計算結果を10にする数式を作る、という遊びが友達との間で流行っていたのだ。

そんな友達、実際には見たことがない。いや、それに近い人物が身近にいたな。いましたよ。
ファインマンの本に、似た話が出てきたことを思い出した。病院に見舞いに行ったとき、たまたま手にしていた切符を見た入院中の知人が言ったという。切符に印字されていた数字が、とてもきれいなのだと。具体的にはその美しさの説明は忘れてしまった。素数だったのか、あるいは並んだ数字の間に「+」や「÷」などの記号を入れると、どうにかなったのだったかもしれない。

その話をすると、その知人はしばらくじっと考えていて、そんなことは、よくある話だという態度でうなずいたのだった。数字アレルギーのこちらとしては、黙って驚くしかなかった。

さて、コラム「数字の魔力」の続き。これまでに発見された素粒子は17種類という例から、17という数字にまつわる話が繰り広げられる。そして最後に、駅の構内の壁に小さく書かれた「1759」の数字を見つけた話。これって素数なんだそうだ。すぐにわかる人って、どれくらいいるのだろう。だが、誰が何の目的でそこに書いたのか。悩ましい。

P23
こんな時、ハタから見ると僕はその一点を凝視しながら固定されたように止まっているらしい。
 電車に乗った後、妻は僕を見て「何か面白いことがあったのね?」と聞く。僕の行動は、妻にバレているのだ。

ちなみに、次のページP24・25には「コラム1 素数の見分け方」。

P62・66 「二重振り子」と「カオス」について。このネタについては、ネット動画にたくさんアップされていた。高校の文化祭で、物理部が展示した2支点振り子を連想した。

P86
 それから漠然と、なぜ自分が数学を楽しめなかったのかを理解し始めるようになった。大学における数学は、高校の数学とは違ったのだ。大学の数学は数学者のものであり、数学者とは「新しい言葉を作る」職業なのだ。矛盾しない論理だけを頼りに言語を作っていく。それが本当の数学なのだ。
(途中略)
 今となってわかることだが、高校での数学は、すでに開発された言葉をどう使うかの訓練と、その言葉を使えばどんな概念がつながりうるかを試験する場だった。これを僕ら理論物理学者は「算数」と呼ぶ。算数は数学ではない。本当の数学に敬意を表して、物理学者の使うものは算数と呼んでいる。

 かくして筆者橋本さんは、数学者の夢をあきらめて、物理学者になったという。

本書でたびたび出てきた、「僕ら理論物理学者は「〇〇」と呼ぶ」という言い方。ほかにもいくつかあって、おもしろかった。

P90
 2016年に東京で開かれた、アートとサイエンスのイベントに登壇したとき、会場から「子供の頃は何をしたら橋本先生のような科学者になれるのでしょうか」との質問があった。僕は即座に「レゴ」と答えたのだが、なんと、建築家やアーティストといった他の登壇者も同様に「レゴ」と答え、会場が沸いたのを覚えている。

このあと紹介している娘さんと一緒にレゴで作った「塔」というのがすごい。写真を見て、びっくり。

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P111
 理論物理学はこの世界のあらゆる現象を数式で解き明かす学問であり、理論物理学のほぼすべての論文はそのような意図で書かれている。

P163 「理学部語」の例
「いくら払った? 有効数字2桁でいいよ」
「ねえ、これどう思う? ただし摩擦はないものとしていいよ」
「もー、あと何分で着く? 非相対論的近似でいいから」
「市役所まで何キロあるかな? 線形近似はダメだよ」

巻末、「さらに思考法を深めたい方へ」として、参考図書リストがある。

初出

P222
本書は、『小説すばる』(集英社)の連載「異次元の視点」(二〇一六年一月号~二〇二一年二月号)とブログ『Dブレーンとのたわむれ』(二〇一四年三月)に掲載した原稿を大幅に加筆・修正したものです。