平凡社『中国古典文学全集6  六朝・唐・宋小説集』の解説

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中国古典文学全集 第6巻/六朝・唐・宋小説集
訳者 前野直彬
平凡社
昭和34年09月20日 印刷
昭和34年09月25日 発行
466頁

北村薫さんの [NO.1285] 読まずにはいられない に出てきた 平凡社『中国古典文学全集6  六朝・唐・宋小説集』の解説 が気になって、調べてみた。

なにしろ、1959年に出版されたというだけあって、月報など斑(まだら)に色づいていた。装幀者が、あの雑誌「フロント」の原弘さん。奥付の検印は、ちゃんと認め印が押してある。昔の岩波古典大系も押してあったななどと感慨にふける。この本は「六朝・唐・宋小説集」なんだけれど、原文はまったく出てこない。すべてが現代語訳だけなので、すらすら読める。現代仮名遣いで漢字も旧字体はない。平凡社の東洋文庫あたりよりも楽かもしれない。

北村さんが『読まずにはいられない』で書いていた、中島敦の「山月記」の元ネタを目次で探す。なにしろ索引がないので、11ページもある目次から探すしかない。南伸坊さんが『仙人の壺』に書いていたという『宣室志』の「虎と親友」は、P300 にあった。1ページに3段組で、3ページ弱もある。

結論から先に言ってしまえば、大まかな内容は「山月記」と似ている。ただし、北村さんが指摘している「「山月記」に出て来る詩の出典などの説明がつかない」というところは、たしかにそのとおりで、漢詩など影も形も出てこなかった。うろ覚えの記憶をたどれば、唐の李景亮撰「人虎伝」 には例の漢詩も出ていた気がする。

遅くなってしまいました、かんじんの「解説」について。こちらはさすがに3段組ではなく、2段組。目指すところは、P453 下段にあった。章立てでいえば、(五)の内容。

ここでは「六朝・唐・宋の小説」が、『聊齋志異』など後の文学に「素材を提供する」とある。これは(中国だけでなく)、「日本文学に与えた影響も、顕著」であるとして、例が挙げられている。お伽草子、林羅山の『怪談全書』などが江戸時代以降に増えた。翻案は、さらに多く、『南総里見八犬伝』の発端を例に挙げる。そして、いよいよ近代についての記述が、以下のところ。

P453
 また明治以後になっても、たとえば芥川竜(ママ)之介が『続玄怪録』の『杜子春の物語』にもとづいて『杜子春』を書き、中島敦が『宣室志』の『虎と親友』によって『山月記』を書いたことなどは、あらためて指摘するまでもなかろう。

たしかに書いてありました。「あらためて指摘するまでもなかろう」とまで、いいきってしまっては引っ込みがつかないでしょうね。「山月記」が高校の国語教材として何十年も取り上げられ続けるとは、このときには前野直彬氏も思いもよらなかったことでしょう。

それにしても、北村薫さんは学生時代にここを読んでいたのですねえ。さらにいえば、南伸坊さんは、本当にここを読んだのでしょうか。すごいな。

 ◆  ◆

ほかにも人が虎に変身する話が、(この巻から)いくつか見つかった。P55「斉譜記」の「虎になった男」、P231「続玄怪録」の「虎になった男」がある。他には、P68「高僧伝」の「虎になった僧」などというものも。目次に並んだタイトルを眺めているだけでもおもしろい。『虎と親友』の次の題名は「麵を食う虫」である。怪異譚なので、奇想天外な題名が多い。

P222「続玄怪録」の「杜子春の物語」も読んでみた。筋立てが芥川の童話とは、だいぶ違った。仙人になるためには、どんなことがあっても、最後まで口をきいてはいけないぞ、というところは同じだが、痛い目にあわされるのは母親ではない。自分自身が拷問にあい、その様子を妻に見せつけるのだ。その後、妻は惨殺され、残虐な拷問と試練が、さらに展開する。最後は、ひと声あげてしまうのは同じでも、仙人の態度や主人公の受け止め方は違っている。えっ、そんなことでいの? というのが感想。

これをあの童話「杜子春」に改変した芥川の意図というのも、また成る程なあと思うしかなかった。この両者の違いを比較すれば、芥川の書いた「杜子春」のテーマがみえてきそうだな。

 ◆  ◆

本書の「解説」上(一)の出だしにある「小説」という言葉の解説が、どうもどこかで目にしたことがあるような気がしてならない。「小説」という言葉の古い使用例として『荘子』を取り上げ、説明している。小説とは、「小さい」「説」言いかえれば、短くてくだらない話」であるとする。続けて、「漢代」には、あきらかに「小説家」という言葉が存在した。その例として、前漢の歴史を記した書物である『漢書』を取り上げている。その中に

P445 下
「小説家」とは、稗(はい)官から出たものと考えられる。「街談巷語、道聴塗説」する者の作ったものである。......

「稗官」とは、おそらく地方に所属する身分の低い役人であったらしい。

P445 下
それ(稗官)が各地の口碑伝説、または現在のうわさ話などを集めて、中央朝廷へ送った。ちょうど『詩経』が、采詩の官という役人が中央へ送った各地の民謡をもとにして作られたとする説明と同じようなもので、現実にどこまで施行されたかはわからないが、観念的にはたしかに存在したのである。そのようにして送られた各地の物語は、地方の風俗や民情を知る資料として、調停が利用するわけであった。
 その稗官の制度は時代の降るとともにすたれて行ったが、習慣だけは残って、各地の物語を採録する者が存在していた。それが「小説家」なのだと、班固(『漢書』の著者)は説明するのである。