玉電松原物語 坪内祐三 新潮社 2020年10月15日 発行 186頁 |
坪内祐三さんが卒業した赤小(世田谷区立赤堤小学校)の後輩にあたる吉田篤弘さんが、
P182
「玉電松原物語」はあくまでエッセイなのだけれど、そういうわけで、僕にとっては、読めば読むほど小説を読んでいるような心地になる読み物だった。
と書いている。
「そういうわけ」の理由がいかにも坪ちゃんっぽい。それよりも、「小説」という言葉が気になったことのほうをここで説明したい。自分でも、この「玉電松原物語」を読みながら、ずっとこれは小説ではないのかと感じていたからだ。
坪内祐三さんが小説を書くはずないのだから、じゃあなんだ? 私小説というジャンルがあるのだから、私(的)ノンフィクションとでもいうのはどうだろう? そんなことを呑気に考えながら読んでいて、吉田篤弘さんの書く「あくまでエッセイなのだ」に出会ったのだ。そうだよ、エッセイでよかったのじゃないか。でも、これまで読んできた坪内祐三作品とはどこかが違う。いや、どこかじゃない。こんなに無防備に幼少時の記憶を発表していいのか?
伸び伸びと遊び過ごした子供時代。ホームベースとなった自宅の周辺の様子を事細かく書いていく。小さな事件やエピソードを起点として思い起こされる数々の出来事。その白眉が最終回となった「第十章」の結びだろう。
P174
(けれど西福寺の近くに住んでいた私は人魂を見慣れていた)。
その寺である時私は玉虫を見つけた。
死んでいたけれど、とても美しかった。玉虫って本当に美しいなと思った。
偶然なのか、こんな私小説といってもいいような文章が最後とは。この続きを、もう読むことはできない。本書カバーの後ろには、いとう良一さんによる玉虫の絵。
坪内さんはいったいどうして、こんな文章を、それも今になって(今だからこそかな)書いたのだろう。執筆にいたる経緯のようなものが「第二章」のなかにある。
P36
商店の数がすっかり減ってしまったことが、この「玉電松原物語」を書こうと思った一番の動機なのだ。
戦後つまり昭和三十年代四十年代五十年代の東京には、さほど規模の大きくない町にもちゃんと商店があったことを証明しておくために。
なるほど、本書冒頭には、これもいとう良一さんによる手書き「『玉電松原物語』松原・赤堤エリアの昭和40年代MAP」と「玉電・三軒茶屋~下高井戸 昭和四十年代 広域MAP」の地図2葉が載っている。
本書では、もともと記憶力のいい坪内さんが、子どものころの思い出をじっくり掘り起こしてくれている。まるで慈しむかのように。とくに個人商店について、意図して執拗に記録を残すように書いている。店の位置関係、扱っていた品物、お店の家族構成や従業員について、記述が克明に続く。ときどき思い違いを訂正しているところなど、くすっと笑ってしまう。どきっとするのは、今、それらの個人商店のほとんどが廃業していることだ。
代わりに出現したのがコンビニエンスストアであり、ファーストフードのチェーン店の数々だった。
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古本好きにとって有名だった「遠藤書店」の記述があるのが「第三章 サヨナラ「遠藤書店」」だ。この店については、とくに植草甚一がたくさん書き残しているし、本書にも遠藤書店関連として植草さんの書名が紹介されている。けれども、坪内さんは
P53
ところで、植草甚一を特別な人と認める人は多くいるけれど、中でもこの一人と言われれば、私は都筑道夫をあげる。
のだという。その理由もおもしろい。都筑道夫『推理作家の出来るまで』(フリースタイル2000年)に遠藤書店がでているのだ。それも、今の場所に移る前、中野の新井薬師近くにあった時代のことだった。
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本書で登場した「固有名詞」について
P22
『怪獣ブースカ』
円谷プロ、TV番組
昭和41年11月9日第一回放送~42年9月27日最終回放送
坪内さんはウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセブンよりも『怪獣ブースカ』が一番好きな怪獣ものだという。
P77
チクロ
そうだ思い出した。
自動販売機のオレンジ飲料があった。
値段は確か十円で、チクロたっぷりと言った感のショッキングオレンジ色をしていた(チクロが有害物として話題になった一九七〇年代には姿を消したーーボウリング場やスケート場にもそのマシーンはあった)。
自販機の頭の部分に透明なガラス球体を半分に割ったような形のものが被せてあって、その中には下からオレンジジュースが噴水として勢いよく吹きつけているのだった。コインを入れると、紙コップにジュースが入る仕組みになっていた。「自動販売機」とは、これのことだろうか。そのころ、成分表示のない駄菓子に何が入っていたのか。
P81
米穀通帳
これはちょっと違和感があった。
P82
私は実家暮らしだったからそれ(米穀通帳がなければ米を買うことが出来なかった制度)を不便に感じなかったけれど、地方出身の大学の同級生は、夏休みなどの帰省明けに、しまった米穀通帳忘れちゃった、とあわてていた。
少なくとも坪内さんが大学に入学した70年代後半、一人暮らしの学生が米穀通帳を持っていたのは珍しかったのではないだろうか。当時、食管法はすでに名前だけで、形骸化していたはず。だから永六輔が取り上げたのだ。
米屋つながりで紹介している「プラッシー」はおもしろい。
P136
ブルーチップ
正式にはブルーチップスタンプかな。
P136
(テレビコマーシャルまでやっていたブルーチップのことを憶えている人はどれくらいいるだろう)。
併せてグリーンスタンプについても紹介している。小学生だった坪内さんには高くて買えなかったリール付きの竿をブルーチップで手に入れたという。
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気になったのが、あけすけな記述、表現をしているところ。おそらくSNSだったら炎上では。
何人か、人物の名前としてアルファベットの匿名にかえてあるけれど、プライベートなことや差し障りのありそうな内容までもが明かされてしまっている。たとえAさんとしてあっても、勤める商店の名前や場所の位置を明かされてしまっては、地元住民にはそれが誰なのか、すぐにわかってしまうだろう。ニックネームそのものもきつい呼び名があった。それが昭和の時代と今との違いだといえば、そうなのだけれど。他人だけでなく、坪内さんの身内についても書いている。いいのか? と何度も心配になった。もはや、まるで怖いものなしであるかのよう。
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自分でも書いているように、子どものころから買い食いと外食が多い。実家では店屋物をとることも多かった。坪内さん自身、外遊びが好きだったというが、それにしても(食べ物以外でも)子どもがお金を使う場面の多いことに驚いた。
当時は体も大柄だったといい、年下を従え、親分ふう。子ども時代に大柄だった少年って、ほかにも何人かいたなあ。橋本治さんとか。
飲み屋で支払うことの多かったのは、子どものころからの習慣だったのかな。
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初出
「小説新潮」2019年5月号~2020年2月号
吉田篤弘さんの「燃える牛と四十七の扉」は書き下ろし
「編集部」として
本作品は著者急逝(2020年1月13日)により未完となった。とある。新刊で、残り何冊を読めるのだろうか。
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