仰げば尊し、和菓子のON? /ああ、勘違い......。 高橋康史 KKベストブックス 2019年06月28日 第1刷発行 191頁 |
「多くの人が、分かっているつもりでも、実はよく分かっていない」事項をテーマとしている。その原因として、小中学校で習ったときに「どうして~なのか?」を考えず、「丸覚え」で済ませてしまったことがあるという。
「仰げば尊し、和菓子のON?」というインパクトのあるタイトル見たのは、どこかの書評記事だった。すぐに向田邦子の『眠る盃』が思い浮かんだ。あちらがTVドラマ化もされたことのある有名な随筆なのに比べ、本書は初出が千葉県の朝日新聞販売会社が地域に出しているミニコミ誌への連載だという。「はじめに」に書かれているのだが、そのテーマ選択にあたって、ほとんどの人が「よくわかっていない」ことを確認するために友人たちに当たったのだとも。リサーチですね。「モルモットくんたち」と表記されている。このあたりのニュアンスが、本書に親しみを感じさせる理由なのだろう。
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しょっぱなの「どうして小学校一年生は4月2日生まれからであって、4月1日生まれではないのか?」は、説明を読んでいて面倒くさくなってしまった。とりあえず、4つの法律が関係しているということらしい。
本書の白眉は P44 第6講 算数「分数の割り算」 だ。「なぜ分数の割り算では、分母と分子をひっくり返して掛けるのか?」
ジブリの「おもひでぽろぽろ」には、この「分数の割り算」が出てくるのだという。こちらは早送りでしか見ていないので、知らなかった。
「どうして? 掛けるのに数が減るの」と質問する小学生に、その姉が「とにかく、掛け算はそのまま。割り算はひっくり返すって覚えればいいの。」と言う。その理由は必要ないというように。
大人になって言うのが「分数の割り算がすんなりできた人は、その後の人生もスンナリいくらしいのよ」
怖い言葉だ。適応というのか。処世というのか。いいや、それが大人だというのだろう。
もちろん本書では、その説明が2種類されている。とくに後者の「式の展開」には強く納得した。言葉ではなく、数式だけで説明が完結している。
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上記の例と同じくらいに面白かった例が P88 第13講 算数「単位の呼び名」 だった。
鉄道の勾配を表す「パーミル」から、一般的な用語「パーセント」を使って「セント(cent)」は「1ドルの100分の1」であり、「1メートルの百分の一である1センチメートル」の「センチ(centi)」とも同義であることを説いていく。
まず、「パーセント」は「パー」+「セント」であること。意味は「百分率、つまり100に対して」。だから鉄道の勾配で用いる「パーミル」とは「パー」+「ミル」、つまり「千分率、千分比」なのであり、鉄道の専門用語ではない。びっくり。
面積の単位「ヘクタール」は「ヘクト」+「アール」である。では「ヘクト」とは何か。そうです、天気予報で使う「ヘクトパスカル」の「ヘクト」と同じ。「ヘクト(hecto)」は100を表す単位接頭語(こんな言葉があるのですね)のこと。
容積について。「dl(デシリットル)」の「デシ」って何? 答えは「d(deci、デシ)」は10分の1を表す単位接頭語。他には騒音などの音の強さや振動の比を表す「ベル」の10分の1の単位である「デシベル(decibel、記号は「dB」)」がある。
ついでに液体で目にするミリリットル「ml(mili-litter)」と同じ体積を表す「cc」の二つの「c」は何の意味か? 答えはキュービック・センチメートル(Cubic Centimeter)の頭文字で、文字どおりに「立方センチメートル」という意味。
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本書のテーマとはそれてしまうけれど、へーえと思ったところが、P176 第27講 音楽「オーケストラ」 にあった。
P176
オーケストラは人類がつくり出した最も高度で大規模な「音楽発生装置」です。また、オーケストラ曲(特に交響曲)は、最高の演奏技術を要する、最も複雑で重厚な音楽作品です。
当たり前といえば当たり前なこと。しかし、今どきこんなことを口にしたら、どうおもわれるだろうか。とても新鮮に感じた。
ここで「最も高度」「最高の演奏技術」「最も複雑で重厚」というが、それでは(いわゆる西洋に対して)他の文化や民族の有する音楽は価値が低いとでもいうのか? などという反論をすぐ思い浮かべるのは、おかしな潮流に毒されているからなのかもしれない。
その昔、ひところ「シンガーソングライター」なる言葉があった。商業主義が一辺倒の音楽に対抗する位置づけだったはず。じゃあヒットチャートは無視していいのかとか、いろいろあったようだけれど、そうしたたぐいのことはひとまず置いておいて。シンプルな良さをもてはやすような。素人芸といってしまえば、それまで。
音楽以外のジャンルでもそうした潮流は連動していたのかも。「サブカル」という言葉が定着したのはいつ頃なのだろうか。
「サブ」に対して本来あったはずの「メイン(ストリーム)」が、ないがしろにされるようになったのも、時期としてはそんなにはズレていないのではないか。
バリ島のケチャはドイツ人が考案したことを思い浮かべた。
著者が本来、ここで書いているのは「オーケストラに指揮者がいなかったら、音楽は演奏できないのか?「オーケストラの団員(演奏者)たちは、常に指揮者(指揮棒)を見つめているのか?」という問いへの答えだった。
著者が大学時代にオーボエ首席奏者だったとは驚きだった。チューニングのとき、最初にAの音を出していたのですね。
P177
オーケストラの内部については、実際にオーケストラで演奏した経験を持つ人しか分からないのは当たり前で、(以下略)
なるほど、そりゃそうだ。小澤征爾さんのルポルタージュ風なテレビ番組でも、練習風景と本番の演奏を見せられることはあっても、指揮者がいなかったらとか、常に演奏者は指揮棒を見ているのかなどといったことには触れることはない。
答えは、分かりやすかった。テレビを見ていれば、漠然とではあるけれど、分かっていたのだ。それを言葉にしてもらって、あらためて納得した気がする。
指揮者が自分の曲への解釈を伝え、演奏を作り上げるのは練習の時間である。従って、本番では、それまでに積み重ねてきたことを「楽団員に思い出させ、指揮者自身が思い描く音楽を表現してい」くために、指揮者がいるのだという。そりゃ、そうだ。当たり前といえば当たり前なこと。
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