[NO.1437] 孤独の価値/幻冬舎新書366

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孤独の価値/幻冬舎新書366
森博嗣
幻冬舎
2014年11月30日 第1刷発行
182頁

8月下旬、Webメディアでは不登校だった有名人の声を、よく目にした。夏休みが終わって新学期が始まるこの時期、学校に行くことがつらく、不幸な結果を迎える生徒を回避するためらしい。本書で主張していらっしゃる「集団が嫌い」「一人のどこが悪いんだ?」という森先生の考え方は、まさしくこうした流れに一致する。

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目次
第1章 何故孤独は寂しいのか
第2章 何故寂しいといけないのか
第3章 人間には孤独が必要である
第4章 孤独から生まれる美意識
第5章 孤独を受け入れる方法

「第2章 何故寂しいといけないのか」の中、P61「植えつけられた不安」から引用

なぜ、そこまで「寂しさ」を遠ざけようとするのか、と考えてみると、次に思い浮かぶのは、そう「思い込まされている」という点である。

筆者は、マスメディアが安上がりな「ステレオタイプの虚構」を繰り返し、流しているためとする。

TV、映画、アニメ、小説、漫画、そのどれもが「仲間の大切さを誇大に扱う」。「そういった演出が過剰に繰り返される」理由は、「そういった種類の「感動」は、作り手にとっては技術的に簡単であ」るからだという。

「感動の安売り」の例として、「号泣もの」を挙げている。条件反射的に自然と涙が流れる「人が死ぬ場面、泣き叫ぶ場面、親子や恋人が引き離される場面」。こうした場面で「涙が出る」ことは自然である。しかし、「涙がでることが、すなわち「感動」ではない」というのだ。

「よく「号泣もの」だと作品の宣伝をすることがあるが、泣くことができれば優れた作品だという評価が、完全に間違っている。人を泣かせることなど、誰にもできる。それは「暴力」に似た外力であって、叩(たた)かれれば痛いと感じるのと同じ単純な反応なのだ」とも。

プロの作家である森博嗣氏が言う「誰にもできる」かどうか、は別として、こうして洗脳され、思考停止された結果、「孤独は、排除しなければならない異常なものにな」ったのだった。「(孤独は)あってはならないものだから、孤独を感じるだけで、自分を否定することにつながる。その観念がどこから来たのかと考えもしない。そこに危険がある」。

「仲間や友達を美化したドラマや小説や漫画が多いのは、そういうものが創作しやすいからにほかならない。」

P78
そもそも、他人のことを「なんか、あの人、寂しいよね」と評することが間違っている。勝手な思い込みで、一人でいることは寂しいこと、寂しいことは悪いこと、という処理を、考えもしないでいるだけなのだ。同じ価値観で返せば、そういう「考えなし」こそが、人間として最も寂しいのではないか。

p79
こうした(読書をするときは、やはり一人で静かな方が良い)ことは、かつては当たり前に認識されたいただろう。静かに一人で過ごす時間の大切さは、どの文化でも語られているし、また、それは贅沢(ぜいたく)で貴重なものだと多くの人が認識していた。それが、ここ数十年の情報化社会のおいて、少し忘れられているところではないかと思う。

p80
このような洗脳から生み出されるのは、「孤独を恐れ、人とつながる感動に飢えた人々」であり、これはすなわち、「大量生産された感動」を買ってくれる「良い消費者」にほかならない。企業はこんな大衆を望んでいる。社会は、こんなふうにして、消費者というヒナを飼育して、利益を得ているのだ。いうなれば「家畜」である。僕には、こんな大勢は眠っているように(意思がないように)見えてしまう。
ごく素直な視点から眺めればそう見える、ということだ。けれども、家畜はある意味で幸せかもしれないし、本人が知覚していなければ「寂しい」わけでもなんでもない。それはそれで良い。口出しするつもりは、僕にはない。ただ、その家畜たちが、ごく少数のオタクを指さして、「あいつは寂しいな」と笑うのは、間違いというよりも、滑稽だと感じるだけである。どちらが寂しいかという問題でもない。どちらも、自分の好きなようにすれば良い。

長々と引用したのは、上記に続けて、「少々筆が滑ったが」という表記を目にした驚きも手伝っていた。こんな表現は、森博嗣氏の文章でこれまで見たことがない。

P82
僕がここで言いたいのは、誰が悪いという話ではない。ただ、「あれは作られた台詞だよ」と誰かが子供たちに教えてやる必要があるということ。頭の良い子なら、それくらい自分で悟るだろうけれど、真面目に信じてしまったりする子も多いはずだ。
(途中略)
つまり、寂しさというものはいけない状態だ、という概念を捏造(ねつぞう)する存在の中で、今や最強なものが、この商売や経済活動の中にあって、しかもマスコミがそれを毎日流し続けているのである。(途中略)このようなものに囲まれて育つ子供たちに対しては、それが宣伝であるということをしっかりと教える必要がある。そして、そのケアは子供の身近にいる大人の責任なのだ。(途中略)僕は、自分の子供には、これを教えた。それがわかる年齢までは、TVを見せなかった。

続けて、「苛(いじ)め」も、同じところに根源があるのではないか、という。

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若者に商業主義によるマスコミが植えつけた幻想を、大人は排除してやらねばならない。これが主張だった。

P86
当たり前のことが、当たり前でなくなっているようだ。それくらい、商業的な宣伝で作られた虚構が、今や大衆の常識になってしまっているのである。

P88
「感動が売り物になった現代」
本章では、寂しいことは何故いけないのか、について書いてきたが、結論は簡単だ。寂しいことは、いけなくない。まったく悪くない。それどころか、人によっては、それが良い状況、必要な状況でさえある。

筆者森博嗣氏の主張は終始一環している。ただし、事例が飛ぶことがある。おそらく、下書き前に、カードなどで構成を詰めていないのではないだろうか。