[NO.1419] 柄谷行人書評集

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柄谷行人書評集
柄谷行人
読書人
2017年11月15日 第1刷

表紙と装釘、著者の昔から出ていたイメージどおり。中身は3部構成になっている。

「あとがき」によれば、大阪在住の山本均氏が収集してきたものだという。
第Ⅰ部 書評『朝日新聞』2005年4月~2017年5月
第Ⅱ部 書評・作家論・文芸時評 1968年~1993年
「小説家としてのダレル」「反ロマネスク・ヘミングウェイ」「文芸時評1~4」
第Ⅲ部 文庫・全集解説 1971年~2002年
武田泰淳、古山高麗雄、大岡昇平、江藤淳、太宰治、後藤明生、坂上弘、北原武夫、ニーチェ、吉本隆明、高橋揆一郎、安岡章太郎、坂口安吾、中上健次、大岡昇平、冥王まさ子、村上龍、坂口安吾、福田和也(重複は別の本、全集など)

書評集ということもあって、読みやすい。巻末の索引までで全598ページと厚みがあるけれども、さらっと読める。

p66
2007年の「今年の3点」
①佐藤優著『獄中記』(岩波書店) ②小林利明著『廣松渉――近代の超克』(講談社) ③マサオ・ミヨシ×吉本光宏著『抵抗の場へ』(洛北出版)
近年は実用書や入門書のようなもの以外に本が読まれなくなったが、一方で、少数ながら、本を読む人たちはむしろ、ポストモダニズム以前のオーソドックスな書物に向かう傾向がある。それは歓迎すべきことである。たとえば、①は、この年代の著者にしては、言及されている本が古くかつ重厚である。今の読者の水準に迎合するところがまったくない。にもかかわらず、佐藤氏の本がよく読まれていることには驚かざるをえない。

なるほど。こうまで誉められていたとは。『世界と闘う「読書術」』で、佐高信氏が言っていた、「(佐藤優氏は)柄谷行人にイカレている......」ということを思い出す。この二人の対談はなかったのかな。

p50
実際、本書(『獄中記』)の「知性」が魅力的なのは、それが外交的・行動的だからである。通常、それは知的であることと矛盾する。だが、著者の場合、通常なら矛盾するようなことが、平然と共存するのだ。たとえば、著者は「絶対的なものはある、ただし、それは複数ある」という。そこで、の本国家と、キリスト教と、マルクスとがそれぞれ絶対的なものとしてありつつ、並立できるのである。

柄谷氏はこのあとにヘーゲルの『精神現象学』を挙げ、並立するという考えかたは、「まさに弁証法的である」と続ける。なるほど。

②は、京都学派「近代の超克」と比較している。しかし、むしろ廣松渉の漢語を多用した文体を取り上げ、読むという視点が面白い。

③のカリフォルニア大学バークレー校でで英文学教授になったマサオ・ミヨシ氏の優れた経歴に対する日本の学者が嫉妬したため、黙殺したというところ。柄谷行人氏の気持ちを想像する。
「チョムスキー、サイード、(フレドリック・)ジェームソンらと、掛け値なしに、親友であった」という。

p225
『虜囚一六〇〇~一八五〇年のイギリス、帝国、そして世界』リンダ・コリー(法政大学出版局、2016年12月刊)
なぜ、イギリスは小さな島国なのに海洋帝国となったのか。海上で勝利しても、弱小陸軍では力による支配はできない。傭兵に頼るしかないからだ。「間接的統治」という言葉を思い出す。現地での制度を残しておくというのが英国流だったはず。本書では、そごで視点をかえて、「虜囚」からの視点で解明しているのだという。
『ロビンソン・クルーソー』『ガリバー旅行記』は主人公が虜囚となる話だし、ウィリアム・アダムス(三浦按針)だってそうだと言われると、説得力がある。

p434
新潮文庫の太宰治『斜陽』解説が、柄谷行人氏だったとは。これを読んだ中学生は何を考えるのだろうか。「斜陽」という題名の由来を、太宰が愛読したというチェーホフ『桜の園』の中の表現からイメージしたり、ナチス占領下における屈折した感情を抱いたサルトルを持ち出したり。この新潮文庫が出版されたのが1974年だというので、しばし納得する。この頃の柄谷氏だったら、こう書いただろうし、それを新潮文庫解説に載せたというのも、なんとなく納得してしまう。文字も小さかったのだろうなあ。

p519
『坂口安吾全集1』(ちくま文庫解説、1998年12月刊)
柄谷氏が解説の中でどこを引用しているのか。安吾は永井荷風を「通俗作家」と呼んでいるという。そして、次の部分を引用する。(引用の引用、孫引き)

荷風は生まれながらにして生家の多少の名誉と小金を持っていた人であった。そしてその彼の境遇が他によって脅かされることを憎む心情が彼のモラルの最後のものを決定しており、人間とは如何なるものか、人間は何を求め何を愛するか、そういう誠実な思考に身をささげたことはない。それどころか、自分の境遇の外にも色々の境遇があり、その境遇からの思考があって、それが彼自らの境遇とその思考に対立しているという単純な事実に就いてすらも考えていないのだ。(「通俗作家 荷風」)

このあと突然フーコーが出てくるところが柄谷氏らしい。シェストフ的不安あたりから、時代背景として読みとれる。

この大部な書評集から、どこに触れるのか。ほとんど恣意的になってしまった。

奥様「冥王まさ子」さんは、どうして小説を書くようになったのかのくだりところ、読むに辛し。