思考のレッスン 丸谷才一 著 文藝春秋 刊 1999年09月30日 第1刷発行 |
いわゆる書評や随筆の文体ではなくて、インタビュー形式なのですが、これが実に読ませてくれるのです。次から次へとページが進むったらありゃしません。噂にあった、まるで神保町あたりの喫茶店で編集者相手に大音声で語っているかのようです。てっきり本当にインタビューを受けた内容を原稿に起こしているものだと思っていました。どうやら自作自演の一人二役なんだとか。なるほど。いかにも丸谷氏にぴたりと寄り添っているインタビューのはずです。これもまたひとつの藝と呼んでいいのでしょう。
吉田健一と小林秀雄の関係、面白し。
P64
小林秀雄さんが吉田さんを認めていなかったということはご存じでしょう。河上徹太郎さんに「あれは見込みがないから破門しろ」なんて言ったらしい(笑)。でもこのことは、逆に、小林秀雄が指導的批評家である時代が終われば、吉田健一の文学観が支配的である時代がくることを暗示してますね。そして事実そうなっています。
いやはや、さすがうまいこといいますねえ。小林秀雄が指導的批評家である時代が終わったのは、いつのことなんでしょうか。小林秀雄が亡くなったのは1983年です。それにしても、「指導的批評家」なる文言ってすごいな。吉田健一の文学観(これもまた微妙だけれど)が支配的になったというのは、これまたいつのこと? みなさんは、そんな認識をお持ちなのでしょうか? この伝でいえば、ずっと現在も吉田健一の文学観が継続中だということになってしまいますが。
その他の気になった本文から
p106
山本有三の「日本少国民文庫」の中に、吉野源三郎が書いた『君たちはどう生きるか』という少年小説がありました。僕はこれにたいへん感銘を受けたんですね。
『君たちはどう生きるか』は、小説だったのか? 少年小説とは書いてあっても、あれは小説だった? じゃあなんだ? と問われると、これまた困っていまいますが。少年小説なのですね。
いずれにしてもですよ。あのうるさ型の丸谷才一先生が、『君たちはどう生きるか』に「たいへん感銘を受けた」などと公言しているというのは、いったいどういうことでしょう? 『漫画 君たちはどう生きるか』が、2018年一番読まれた本になり、姜尚中・尾木直樹両氏が推薦の言葉を書く時代に生きておられたなら、丸谷先生はなんとおっしゃったでしょうか
p114
話はちょっと飛びますが、「趣味」というのは、たいへん大事な問題なんですね。ところが、その重要な要素を見すごしてすべてのものを論じるのが、現代日本文化の悪癖だと僕は思っているんです。文学を論じるときも、政治についても、教育問題にしても、趣味の良し悪しということがまったく視野に入ってないでしょう。
(中略)
戦前の日本人の趣味のよさはむしろ随筆に出てましたね。評論という形では表しにくい性格のものでした。このあいだ木下杢太郎の、本の装釘のことを書いた文章を読んで、感心しましてね。植草甚一ふうに言うと(笑)、唸っちゃった。
丸谷才一好きにとっては、堪らないところですね。「趣味」からとらえた戦前の随筆。植草甚一ふうに言うと唸っちゃった いいぞ、いいぞ。いまとなっては、こんなふうに書いてくれる人、もういません。本の装釘について書いた木下杢太郎の随筆なんて、いったい誰が読むんだ? ってことになってしまいそうです。
p116
ここで思い出すのは、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』(森常治訳、みすず書房)のことです。
丸谷先生がいうマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』は、けっして現代思想ふうにはなりません。まあ、年代が違うけれども。こういっただけでは、現在は通じないのでしょう。
p119
しかし、その最初の一冊目をどうやって手にするかという問題は、依然としてあります。
コツがないわけじゃない。コツの一つは書評を読むことですね。そうすれば、かなり本選びのカンがわかります。
「書評」といったって、ピンキリです。丸谷才一さんの書評が今も続いていたとしたら、いったいどうなっていただろうと想像すると面白いです。書評家なあんて、軽い呼び名とはいえなくなります。ライターと書評家が混在する今、書評家ライターなんて肩書を目にすることもあります。
本書は、かなりのスペースを割いて、読んだり書いたりするために必要なことが書かれています。丸谷才一氏の方法紹介のサービス風レシピ。
ぞれにしてもです。上記、「趣味」について。植草甚一ふうに言うと(笑)、唸っちゃった。というのがなんともはや。(笑)うしかありません。そもそも、丸谷才一さんが植草甚一さんの名前を出したことは、ほかにあったでしょうか。
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