旧制一高の文学 稲垣眞美 国書刊行会 2006年2月20日 印刷 2006年3月3日 発行 |
文学史に出てくる名前の中で一高出身者の多さに、なるほど。
「はじめに」から引用
p3
たまたま私は、平成十一年から十五年にかけて、旧]高の同窓会誌『向陵』に同誌編集委員会の依頼で「一高文芸部とその周辺」の連載をした。そのため、明治二十三年十一月(その年七月に漱石や子規が文科を卒業直後)に創刊され、まえの戦争末期の昭和十九(一九四四)年まで五十五年間に三百七十八号を発行した『一高校友会雑誌』や、そのあとも昭和二十五年三月に一高そのものが新しい学制によって終焉する前年まで刊行された校内紙『向陵時報』の全ページを渉猟して、右に挙げた人々やその他の文芸部委員の手になるそれぞれの時代の主だった論考、創作・戯曲・翻訳・詩歌などをできるだけ多くコピーし、収集して、明治・大正・昭和時代前半までにわたる十六、七歳から二十歳ぐらいまでの青春文学像というべきものをまとめ上げたのであった。
特に明治大正には短歌と俳句を詠むことの比重の高さ? に驚いた。結社に入ったり門人になったり、雑誌を出したり。今、短歌や俳句雑誌を新たに出す若者がいるか? もっとも、今の若者はそうやって昔のように群れないか。特に創作(クリエイティブ)を志向するような人は。
数多くの秀才が登場するが、早熟タイプに目がいった。例えば『海潮音』の上田敏。16歳で『校友会雑誌』に「文学に就いて」を掲載した。その中で英・独・仏語、さらにはギリシャ・ラテン語の古典の文学作品まで解読して(当時は翻訳はまだほとんど出ていなかった)、実際に作品を要約しながら紹介したのだという。
三木清の紹介内容もなかなかのもの。漢学者塩谷温のもとで『資治通鑑』の読書会を開いたという。
p95
また、大正六年七月文科を(主席で)卒業して郷里の瀧野へ帰る途中、京大の西田幾太郎を訪ねてカントの『純粋理性批判』の原書を借りて、九月に京大に入学するまでの夏休みの間に、全部読破してしまったという。
林達夫はドイツ語が第一外国語のクラスだったのにフランス語も独習したのだという。その後、一高を中退し京大哲学科の選科に入学。後に本科の学生となり深田康算教授の美学美術史を学んだのだという。
H・G・ウェルズの『世界文化史大系』(日本版初訳全十二巻、大鐙閣刊)の全訳をなし遂げた北川三郎も秀でていた。一高では独法だったのを東大には理科で入学試験を受けて合格したとも。さらに麻布のカフェで働いていたウェイトレスの境遇に同情し、富士の樹海で心中。29歳だったという。やれやれ。
芥川から堀辰雄、立原道造、その後のマチネポエティックの3人、加藤周一、中村真一郎、福永武彦などが続くが、きりもなや。
意外だったのが小林秀雄についての記述の短さ。学外での活動が多かったためとのこと。
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