お言葉ですが... 別巻2 高島俊男 連合出版 2009年5月20日 第1刷 |
高島さんの魅力は小気味いい啖呵を切るようなところ。痛快。
例としてp38「「水五訓」の謎」かいい例だった。
これがその本文なのであれば、これは黒田官兵衛どころではない。江戸のものでも明治のものでもない。昭和、それも戦後のものである。
「障害にあい」「汚れを洗い」と戦後かなつかいが二か所ある。「失はざるは」と正かなつかいが一か所ある。ゴチャマゼである。この本文によるかぎり、筆者は戦後の人で、ただし新かな育ちではなく、時に正かなもまじる世代の人である。
なお、言うまでもないことだが、王陽明という説があるそうだからつけくわえておくと、これは漢文を訓読したものではない。はじめから日本語で発想されたものである。「AはBなり」の形で、Aがむやみに長くてBがたったの一字という漢文はまずなかろう。王陽明だの老子だのというのは見当はずれである。もっとも日本語としても少々変である。到底古文ではない。
近代の用語がいくつも出てくる。たとえば「蒸気」。これは江戸後期の蘭学者が翻訳用に作った語だが、一般にもちいられるのは明治以後である。
それよりなにより、水が空にのぼって雲になったり、霞になったり、というのが、小学校の理科で教わる知識だ。むかしの人は、空にうかぶ雲を見て、あれは地上の水が姿を変えたものだ、などと思いはしない。これだけでも黒田官兵衛なんぞと縁がないのは自明である。
字のこともある。
「障害」という語が出てくる。昭和でも戦前なら通常は「障碍」もしくは「障礙」である。」「障害」と書く人もあったが稀である。戦後「碍」「礙」の字が当用漢字から削られ、代替文字として「障害」と書くようになった。ワープロやパソコンで文章を書くようになってからは「障害」ばかりである。これも戦後のものである証拠の一つである。
各項のおしまいが「なり」だから文語文だと思う人があるのかもしれないが、この「なり」を「である」になおせば現代口語文である。文語文と口語文のちがいは、「なり」が「である」に変るだけ、というような簡単なものではない。つまりこれは現代人が作って、文末に「なり」をくっつけるという幼稚単純な手口で文語文に見せかけたものである。
一刀両断。
「これは黒田官兵衛どころではない。江戸のものでも明治のものでもない。昭和、それも戦後のものである。」
「この本文によるかぎり、筆者は戦後の人で、ただし新かな育ちではなく、時に正かなもまじる世代の人である。」
「これは漢文を訓読したものではない。はじめから日本語で発想されたものである。「AはBなり」の形で、Aがむやみに長くてBがたったの一字という漢文はまずなかろう。王陽明だの老子だのというのは見当はずれである。もっとも日本語としても少々変である。到底古文ではない。」
「近代の用語がいくつも出てくる。たとえば「蒸気」。【途中略】むかしの人は、空にうかぶ雲を見て、あれは地上の水が姿を変えたものだ、などと思いはしない。これだけでも黒田官兵衛なんぞと縁がないのは自明である。」
お得意の当用漢字から削られた字についての件は省略させていただいて、「つまりこれは現代人が作って、文末に「なり」をくっつけるという幼稚単純な手口で文語文に見せかけたものである。」
「幼稚単純な手口」......いいなあ、高島節炸裂。
その2もなかなか。
曰く
信奉者はだいたいつぎのような人たちのなかに多いらしい。
一、水道業者、河川関係者。
これは水をあつかう商売だからわかる。
二、小学校長、地方自治体の議員、中小企業の社長、各種団体の幹部等。
これが校長室や講堂や事務室などに麗々しく水五訓をかかげているのである。社会的にはわりあい地位が高い人たちで、そのなかの、むかしの文章を見たことのない、知的レベルの高くない人たちに信奉者が多いらしいとわかった。こういう人たちが、黒田如水だ、いや王陽明だと言っている。国会図書館に質問状を出す。しかし、自分の部屋にかかげてあるものが、いったい戦国時代の用語・文章であり得るか否か、考えてみるほどの知力はないらしいのである。
「社会的にはわりあい地位が高い人たちで、そのなかの、むかしの文章を見たことのない、知的レベルの高くない人たちに信奉者が多いらしいとわかった。」
「自分の部屋にかかげてあるものが、いったい戦国時代の用語・文章であり得るか否か、考えてみるほどの知力はないらしいのである。」
「小学校長、地方自治体の議員、中小企業の社長、各種団体の幹部等。」で飾っていた人はこれを読んでどう思ったのか。それと永平寺などのお坊さん。谷沢永一氏も挙げられていたっけ。「俗流人生訓......」、高島さんが嫌いそうだ。
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