小説以外 恩田陸 新潮社 2005年4月30日 発行 |
なによりも物語を次から次へと紡ぎだすことが好きな恩田陸さんは、「五十枚の小説の原稿を書くより、四枚のエッセイを書くほうが時問が掛かってしまったりする」のだといいます。「自分のこと、現実のことを書かなければならない」エッセイが苦手な恩田陸さん。そんな彼女に、なんだか妙に納得してしまいます。
一作(くらい)は、傑作を(だれでも?)書けるけれど、ほとんどの人が2作目以降は書けなくて苦しむ。ましてや10年以上もコンスタントに書き続けることができる人というのは、ごく限られた存在である。なにがなんでも(小説を)書き続けられる人だけが、作家になることができる。作家のことを究極の嘘つきなどと呼んだひとがいたが、とにかく物語を紡ぐのが好きで好きで仕方がないという人が世のなかにはいるのだ。たとえば、その一人が恩田陸さんなのでしょう
本書について、著者自身による説明がありました
p11
まえがき
エッセイが苦手である。
自分のこと、現実のことを書かなければならないからだ。どこまで書いたものかといつもくよくよ悩むので、五十枚の小説の原稿を書くより、四枚のエッセイを書くほうが時問が掛かってしまったりする。
できれば、作者のデータなど何も残らず、小説だけが残っていくというのが私の理想なので、ひたすら小説ばかり書いてきた。
それでも、十数年も仕事をしてくると、それなりにエッセイが溜まっているもので、この度、一冊にまとめてもらえることになった。不惑も迎えたことだし、もうすぐデビュー十五周年でもあるので、タイミングとしては今がちょうどいいかなあと思った。エッセイを出すと決まった時から、タイトルはこれしかないと決めていた。
小説だと冷静に書けるのに、エッセイに関する限りどうも白意識過剰になってしまい、読み返すとそのみっともなさに赤面してしまう。
広告絡みと人生絡みの仕事は引き受けないと決めているのだが、本に関するエッセイは割とよく引き受けていたので、白然と読書関係の文章が多くなっている。
ほぼ発表順に並べてあり、一読して書かれた状況が分かりにくいと思われるものにはコメントを付けてあるので、一人の小説書きの悪戦苦闘の記録としてご笑納いただければ幸いである。
「デビュー十五周年」というところが、たまたま恩田陸氏の愛読者だった期間と重複します。
幼い頃から物語りを空想するのが好きだった由、納得しました。小学生の頃、漫画を描いていたけれど、空想のほうが先行してしまって最後まで描ききれなかったというエピソードを読むと、これもまた納得します。きっと、根っからのストーリー・テラーなのですね。このあたりが彼女の特徴なのじゃないかな。小説家となった今でも、プロットに精魂を傾けることがあるという表現がありました。
P131『シャドウ・ファイル/狩る』の中に出てくる表現として「「語る」喜び」という言葉がありました。恩田陸さんもまた「語る」喜びに、作家としての意義を見いだしているのだろうな。
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「自分のこと、現実のこと」は書きたくないですが、いやいや、本書を通して読んでいると、書いたものから生育過程がよく伝わってきます。充分に文章で自己開示していますよ。
彼女のもうひとつの特徴は転校を繰り返した経験でしょう。彼女の作品には、どうして「学校」を舞台にした小説が多いのか、その理由も納得しました。「学校」を外部からの視点で客観的に見るなんていうことは、転校生にとって何ら難しいことではないでしょうから。
普段は家の中で過ごし、読書中心の生活をおくっている彼女が、珍しく外出の話題、散歩について触れていました。
p23
東京という町は、連続のようでいて不連続の町である。散歩を愛する方々ならば分かるだろうが、私鉄や地下鉄の駅から駅の間を歩くと、「こんなふうに続いていたのか」と驚かされることがある。楽屋から舞台に出ていったような感じ。なんというか、明らかに場面転換をする境目があるのである。東京は乱歩が描いたところのパノラマ島なのだ。違う時代と違う空間が、つぎはぎ細工のように、ちよっとずつずれて重なっている。そして、あらゆる年代がある。例えば中央線沿線の駅に降り立つと、どうみてもそこは七〇年代の、地方の県庁所在地なのである。東京は皆さんお嘆きのように、恐るべき勢いで町並みは変わりつつあるが、それでもやはりいろいろな時代がちょっとずつ残っているのが面白い。
東急系の私鉄沿線の、古い住宅街を歩くのも楽しい。私が「巴さんの家」と呼んでいる、古い家を探すのである。「巴さん」は私の考えたキャラクターで、昔の文化住宅みたいな和洋折衷の木造の家に住んでいる、家でごろごろ酒を飲み、つまみを作りながら学術雑誌の翻訳をしている不思議な女性で、口が悪くて愛想もない、三十代後半の安楽椅子探偵なのである。この、好みのうるさく、多趣味でくだらないことをいろいろ知っている女性が住むにふさわしい家とはどれか? そんなことを考えながら歩くのである。最近の、一か月でバコバコ建ってしまう、ビジネスホテルのユニットバスの壁みたいな家は不愉快である。見ていて面白くないし、どんな人が住んでいるのか興味も湧かない。私が密かに気に入っているのは大森界隈だ。ここには変な家がいっぱいある。私が思わず「完壁!」と叫んでしまった家も大森にあった。木造モルタル造り平屋建て、出窓のある洋室があって、牛乳受けがあって、庭にシュロの木がある。思わずじーんとなって、家の呼び鈴を押すのを我慢するのに苦労したほどだ。こんな古い住宅街を歩いていると、いろいろな物語が頭に浮かんでくる。この家の奥の座敷には大きな屏風があって、その前にはザクロの実の入った漆塗りの黒い盆がある。この家には年を取った双子の老人が住んでいて、日々相手を出し抜いて昔からこの家にある屏風に書かれた暗号を解こうと心理戦を繰り広げているのだ、とか。この無人の砂場の底から、夜、こっそり人間の手が生えてくる、とか。この給水塔には、人を食うという噂がある、とか。この地下道が台風で浸水して、ゴムボートで流れていったら、そこには何が現れるだろう? などなど。オフィス街、商店街、どこを歩いていてもふっと訪れる無機質な時間がある。今自分が違う世界の、違う時間の、違う自分として存在しているような気がするのである。東京の、次々と回り舞台のように変わる風景には、無数の人生を錯覚させる瞬間がある。
【以下略】 一九九六年八月号
書かれたのが1996年のことなので、今ころ、大森界隈を歩いても「巴さんの家」は見つけられそうにないかもしれません。けれども、ここでわざわざ大森という地名が出てきたところに驚きました。
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他に気になったところとして、SF好きな点があります。どちらかというと、恩田陸さんにはホラーや探偵ものというイメージが強かったけれど、タイムトラベルものを嬉しそうに書評しているところにひかれました。たとえば『ジェニーの肖像』など、読んでみたくなりました。
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最後に、願わくば巻末に索引が付いていて欲しかったです。せめて書名だけでも。そうすれば読んでみたくなった本を手早くまとめられたのに。出版社サイトにこうして「目次」が掲載されていても、肝心の書名がわかりません。リンクはこちら。
追記 驚きました。新潮社サイトには、本書の電子書籍紹介がありました。リンク、こちら
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