[NO.1268] 「解説」する文学

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「解説」する文学
関川夏央
岩波書店
2011年11月2日 第1刷発行

岩波書店から出た「「解説」する文学」というタイトルの本なので、てっきり関川氏がこれまで出してきた文芸批評か評伝かと思っていました。ところが、意外なことに、これまであちこちに書いてきた文庫の解説を集めたものでした。本書出版の経緯があとがきにあります。

p383
「解説」するあとがき
むかし、文庫本巻末の「解説」にはお世話になった。懇切からお節介まで、色々あった。なかには明らかに空転している「解説」もあったが、それは不勉強を空威張りでごまかそうとした昭和戦前的「教養主義」の副作用であろう。だが総じて「解説」の本道を踏み外してはいなかったと思う。本道とは、それがいつどんなときに書かれたかの境遇を明らかにして、作家の来歴と社会相の変化のなかに作品を位置づけることだ。
しかし、 一九七〇年代なかば、事態はかわった。感想文・雑文のたぐいが「解説」として巻末に置かれるようになった。なんでもかでも文庫化したからだろう。もはや文庫化は、本の、また作家のステイタスの指標ではなくなった。同時に「解説」の本来の意味も忘れられた。これならいっそ「解説」などないほうがいい、と感じられる文庫本が急増した。
二〇一一年春のある日、岩波書店の坂本政謙さんが、長年にわたって私が書いてきた文庫「解説」のうちからいくつかを選んで単行本化したい、といってきた。それは意外な申し出だった。

文庫本巻末の「解説」の本道とはなにかを説明します。すなわち、その作品がいつどんなときに書かれたかの境遇を明らかにして、作家の来歴と社会相の変化のなかに作品を位置づけることが文庫本巻末の「解説」の本道だったのです。ところが1970年代なかばから、様相は変わりました。「解説」どころか、感想文・雑文のたぐいがとってかわってしまいました。なんでもかでも文庫化したことで、文庫化が作家のステイタスの指標ではなくなってしまい、文庫本巻末にあった「解説」のもつ、本来の意味も忘れられたのです。

本書にあるのは、決して感想文・雑文のたぐいなどではない、関川氏による立派な「解説」です。たとえば洲之内徹について。

p353
クリスチャン的家庭環境。左翼運動体が内部に必然的に備える不毛さ。戦地における人間性の喪失とその行為。さらには「文学という制度」への過剰な信頼。
日本近代の問題と矛盾を一身中にみなぎらせたかのような洲之内徹であったが、美を見る目だけは、最後まで清浄であった。美をもとめる心は誠実であった。それが『気まぐれ美術館』を名作たらしめた唯一無二の理由であろう。
洲之内徹は小説で成功しなくて幸運であった。もし芥川賞をもらっていたなら、大半の受賞作家がそうであるように、とうに忘れられていただろう。
大陸渡航以前からの古い友・大原富枝は、洲之内徹の死の二年後にこの愛情に満ちた評伝『彼もまた神の愛でし子か』を書き、そこには小説家洲之内を惜しむ気持も存分にこめられているのだが、私は小説至上主義、文芸至上主義に味方しない。
洲之内徹は「神の愛でし子」ではなかった。彼は「神」を否定しようとしつつ「美」を愛でた。そうしながら昭和日本そのものとおなじく、矛盾と波乱に満ちた七十四年余の人生を、総体としては誠実に送った入であった。
(ウエッジ文庫、二〇〇八年八月)

これは、大原富枝が書いた『彼もまた神の愛でし子か--洲之内徹』についての解説ですが、関川自身の意見が率直につづられています。「私は小説至上主義、文芸至上主義に味方しない」。飾らない文章が読みやすい。

あるいは山本夏彦氏についての読ませる解説、「年を経た鰐の話」について。面白し。

出版社サイトに目次を含む紹介あり。リンクこちら