[NO.1220] エピクテートスとモンテーニュとに關するパスカルとサシとの対話

Sacy.jpg

エピクテートスとモンテーニュとに關するパスカルとサシとの対話/哲学叢書
パスカル 著
前田陽一 訳
創元社
昭和23年1月5日 印刷
昭和23年1月15日 発行

パスカルの『パンセ』に、「人間は一本の葦にすぎない、......だが、それは考える葦である。」という有名なフレーズがある。で、パスカルはどうして人間をよりによって葦にたとえたのか、という疑問が生じる。この問いに対する答えは聖書によるものとするのが一般的のようだ。

[NO.1216] 『パンセ/ルイ・ラフュマ版による』(パスカル著、田辺保訳、新教出版社)の巻末、訳注(p405)に、上記の問いへの答えとして本書が挙げられていた。引用のリンクはこちら。

p125
何故にパスカルが人間の脆弱性の象徴として葦を選んだかと云ふ點に關するのである。

出版年が戦後すぐということで、今にも製本がばらばらになりそう。しかも用紙が仙花紙なので、丁寧に扱わないと、あっという間に粉になってしまいそう。したがって、印刷された活字も読みにくい。旧字体なのは抵抗なく読めても、文字の間に例のカスのようなゴミが混じっている。

目次
譯者序......1
エピクテートスとモンテーニュとに關するパスカルとサシとの對話......5
譯者註解......41
『パスカルとサシとの對話』の眞偽......77
パスカルの「考へる葦」......119

※   ※   ※

「譯者序」 の中に

十二年振りで見る租國の變り果てた姿に呆然としてゐた

という記述を見たときに、おやっと不思議に思った。仏文学者が中国や満州に抑留されるはずはない。この前田陽一氏の履歴にまた、実に興味深いものがあったのだ。

ウィキペディア(Wikipedia)の前田陽一の項にある「来歴・人物」が読んでいて楽しい。どんな人が執筆しているのだろう。リンク、こちら

以下、引用


来歴・人物

成城高校(旧制)、1934年東京帝国大学仏文科卒。同年フランス政府招聘留学生として留学。

パリ大学在学中は、外務省の河相達夫の推薦により外交官補となり、ドイツ占領下のパリ大使館で副領事を務めるが、ノルマンディー上陸作戦後、ドイツへ逃れ、1945年、米軍に拘束され、アメリカで終戦を迎える。

この逃避行は、ヴァイオリニストの諏訪根自子、ドイツ外交官補の大賀小四郎が一緒だった。帰国後前田は、外交官試験を通っていなくても外交官として遇するという河相の言葉が文書化されていないことを知り、研究専攻に戻り、一高教授を経て1949年東大教養学部助教授、1951年 - 1972年教授、教養学科長等を歴任した。大江健三郎の東大時代の恩師にあたり、不破哲三のフランス語の師匠でもあった[1]。 以下略

「1934年渡仏、1945年にドイツで米軍に拘束され、アメリカで終戦を迎える」までしかわからない。その後の詳細な年譜がないので推測するに、帰国したのがおそらく1946年だったのだろう。何月に帰国したのかもわからないけれど、「譯者序」の日付が昭和廿二年七月だったことから、執筆期間はごくわずかしかなかったはずだ。

最後に、上で引用した「呆然としてゐた」に続くのが、以下の部分になる。

......筆者に、靜かに筆を採る機會と勇氣を與へて下さつた、恩師辰野隆先生を始め、東大佛文科の諸先生、及び、同學同信の友、森有正君に、此機會に深く感謝申上げる。

出てくる名前がどれも目を見張るしかない。前田陽一の妹は神谷恵美子だ。