[NO.1155] バカ丁寧化する日本語

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バカ丁寧化する日本語/敬語コミュニケーションの行方/光文社新書
野口恵子
光文社
2009年8月20日 初版第1刷発行

この件について検討するとすれば、日本語論からというよりも、現代社会を考察する社会学の視点からの方がいいかもしれない。筆者は青学仏文を卒業後、パリ第八大学に留学。フランス語通訳案内業として働いた後、1990年より大学非常勤講師。仕事をしながら放送大学卒業、東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、いくつかの大学で教鞭をとっているとのこと。

国語学の視点から分析すれば、「~させていただく」を筆頭とするおかしな言葉遣いは訂正することができよう。ただし、それだけでは、なぜ、こうまでおかしな敬語が増えているのかという理由づけにはならない。そこで、現在のコミュニケーションの在り方が問われる。

本書の眼目は、面倒だったであろう「使用例の面白さ」ではないだろうか。

目次
はじめに
第一章 させていただきたがる人々
「させていただく」は耳障りか/「させていただく」はだれに対して謙遜し感謝の意を表しているのか/「させていただく」を使うときに、言葉の適材適所への配慮はなされているか/「させていただく」は形骸化したか/「させていただく」はどんなときに慇懃無礼となるか/「お訴えさせていただく」は「訴える」の謙譲語か/強く訴えることとへりくだることは相容れるか/「さ入れ」言葉とは何か/「さ入れ」言葉は慣用となるか/「させていただく」の濫用によってどのような混乱が起こりうるか
第二章 現代敬語考 - 尊敬表現を中心に
私たちは八五郎の敬語を笑えるか/敬語の不統一とは何か/敬語の不統一が生じないようにするにはどうしたらよいか/「奥さん」と「ご主人」は差別語のリストに入れて不使用とすべきか、あるいは、便宜的に敬語と見なすか/「お客様」は絶対敬語化したか/日本語の丁寧語化は「様」と「さん」にどのような変化をもたらしたか【一、「様」】【二、「さん」】/日本語の丁寧語化がエスカレートするとどうなるか 【一、「超」のつく過剰敬語「御方様」】【二、話者が単に「敬語好き」なのか、戦略的慇懃無礼なのか不明な過剰敬語】【三、敬語の使い方を知らないことがばれてしまう過剰敬語】/謙譲語の尊敬語化は慣用となったか/政治家のかくも好む「を入れ」はどこがおかしいのか/許可を求めることが依頼することになるのか
第三章 現代謙譲語考
謙遜するとはどういうことか/目上の人に向かって「ご紹介してください」と言うのはなぜおかしいのか/動詞の謙譲語に二種類あるというのはどういうことか/謙譲の表現の使い分けはできているか/「先生はご乗車できません」は間違いで、「先生はご乗車になれません」が正しいのか/二方面への敬語とは何か/アナウンサーは二方面への敬語のつもりで言っているのか、それとも単なる誤用か
第四章 敬語使用と想像力
デジタル的、アナログ的言語コミュニケーションとは何か/マニュアルどおりに応対する従業員に合わせて、客のほうも、想定される「客のためのマニュアル」に沿った受け答えをせざるを得ないのか/マニュアルどおりにしゃべり続けていると、想像力が働かなくなるか/スポーツの試合後のインタビューで、質問者は想像力を駆使しているか、選手に敬意を払っているか/慣れない敬語を用いることにより、ほかの言葉の使い方もおかしくなるか/なぜ想像力が欠如していると敬語が使いこなせないのか
第五章 変わるコミュニケーション
周りを観察しない人、自分を客観視できない人に、他者への敬意を行動で示すことができるか/「させていただきたがる人々」は、実は「させていただきたがらない人々」だったのか/親しい人にはひっきりなしに謝るのに、なぜ他人に対しては何も言わないのか/自分の言いたいことを相手にきちんと理解してもらうための努力をしているか/経験が言葉を豊かにするとはどういうことか/敬語コミュニケーションは変わるか
おわりに

用例の引用

p22
次のような言い方に異議を唱える人も少ないと思われる。
「ヨウコさんとA大学でご一緒させていただいております田中と申します」
「すみませんが、頭痛がひどいので、早退させていただきたいのですが」
聞き手は、これらを謙虚な表現と受け取る。怒蟄無礼だ、けしからん、と怒る人や、嫌み
に感じる人はいないだろう。では、次はどうか。次第に違和感を抱く人も出てくるのではな
いだろうか。
「その日は親戚の法事がありまして、申し訳ありませんが、欠席させていただきます」
「僭越(せんえつ)ながら、議長を務めさせていただきます」
「ファンだからこそ、あえて申し上げさせていただいた次第です」
「がんばらせていただきました! このお値段で放出いたします」
「閣僚を辞任させていただきたい、というふうに考えております」

上記の例で、もっとも的確にまとまっているのは、順序は逆になるが冒頭に引用されている次の例であろう。

p18
「このたび、新曲『〇〇旅情』を歌わせていただくことになりました」
というような言い方を誰も耳にしたことがあるだろう。しかし、これは、そのようにして真摯(しんし)に敬語を使用しているというよりは、無批判な「紋切り型」としてただ「させていただく」を引っ付けているにすぎない。その証拠に、そうへりくだる必要のないところにまで、この「させていただく」が頻出する。「歌わせていただく」ために「レコード店を回らせていただいた」結果「皆様方に喜んでいただいて」「紅白にも出させていただき」「おかげさまで一人前にさせていただいた」りするのである。こうなると、その心のなかには、別段な敬意などは働いていないことが印象され、結果的に、「慇懃無礼」という感じになるであろう。こういうのを、謙遜的倣慢というのである。                  ――林望『日本語へそまがり講義』

著者による言い回し「~させていただきたがる人々」について、その「兆し」のようなものに初めて出合ったのは、建築現場で目にする看板だったような気がする。街中でのビルの建築現場に出ている看板に、ロゴのようなヘルメットを被った人間がペコリとお辞儀をしているイラストとともに、ご迷惑をおかけしています、というような文言を目にしたとき、あれま、と違和感を感じたものだ。そうした気の回しかたが、いつの間にやらここまでエスカレートしてきたのではないだろうか。

この「さ入れ」言葉のほかに、「のほう」で丁寧を表したい人について、「さん」→「様」への移行、政治家の好む「を」いれ言葉など、用例が面白い。

言葉遣いとは離れての考察では、第四章 敬語使用と想像力の「デジタル的、アナログ的言語コミュニケーションとは何か」での精神科医を悩ませたという例が傑出している。「デジタル的言語行動」と命名された反応は、今後ますます増えてくるのだろう。

p182
C夫人 「私たちの」病人(引用者注・夫人の娘のこと)の具合はどうです?
私   だいぶいいですよ。
C夫人 まあ、そうですか。治ったんですね!
私   いや、まだ治ってはいません。
C夫人 何ですって。嫌だわ。ぶり返したんですか。
私   達います。ぶり返したのでもないです。
C夫人 じゃあ、ひどく悪いんですね。
私   いいえ、いいえ、ご心配なく。今はもう、ひどく悪くはないですよ。
C夫人 先生は自分の言っていることがわかってるんですか。治ってないと言っておいて、
今度は悪くないと言う!
このようなデジタル的なやりとり、全くアナログ的でないやりとりの末(中略)、私は返す言葉がなく、口ごもった。
- ボリス・シリュルニク『サルの記憶とヒトの言葉』(拙訳)

デジタル的、アナログ的言語コミュニケーションとは何か
ボリス・シリュルニクは、フランスの精神神経学者・精神分析医だ。ここに出てくる、言語コミュニケーションにおけるデジタル的、アナログ的という言葉を、著者は心理学者のアンヌ・アンスラン・シュゼンベルジェの説として紹介している。デジタル的というのは定式化を特徴とし、情を通わせる関係を避けようとする言語行動、一方のアナログ的言語行動はより情緒的で、体験や感覚に基づくものだという。
入院患者の母親であるC夫人と電話で言葉を交わしたシリュルニク医師は、夫人のデジタル的言語行動を前にして途方に暮れる。この母親の解釈では、「だいぶいい」イコール「治った」、「まだ治っていない」イコール「ぶり返した」。そして、娘の状態は非常に悪いのだという結論を下す。それを医師が否定すると混乱に陥り、混乱を招いたのは支離滅裂な話をする医師のせいだと、相手を責める。
C夫人は、精神科医の言葉を○×式で解釈しているとも言える。「治った」と「治っていない」の二つしかないとしたら、「まだ治っていない」患者の状態は、すなわち「悪い」。これがデジタル的と名づけられるゆえんだ。著者が記すには、このやりとりのあと、夫人は、「あなたの話には一貫性がない」と言い捨てて電話を切った。「あなたの話には一貫性がない」、これは、入院前の娘が母親から連日のように聞かされていた言葉と全く同じものだ。
シリュルニク医師とC夫人との会話は、ともに日常的に不自由なく使用しているフランス語で行われている。言葉は通じているはずなのに、真の意味のコミュニケーションは成立していない。医師は相手のデジタル的言語行動を憂えるが、母親のほうは娘の主治医の言語能力に疑いを持つ。それだけでなく、医師の人間性にまで不信の念を抱くのだ。
精神科医を悩ませるのはC夫人だけではない。別の患者の親は、入院中の子供との面会を前に、「どのぐらい一緒にいなければいけないのですか」とたずねる。「あまり長くないほうがいいですね」と答えると、「そうじゃなくて、何分か言ってください」と食い下がる。「さあ、よくわかりませんけど、まあ、だいたい一〇分ぐらいでしょうか」と言うと、「わかりました」と満足して子供のところに行き、「さあ、いらっしゃい。今から一〇分間一緒にいてあげるから」と告げるのだという。
また、「お子さんは治りましたよ。もう精神科は卒業です。今後必要なのは心理面と社会面のケアで、これらはもう医学の分野ではありません」と言われた親が子供に言う。「今、先生から聞いたんだけど、医学ではもう何もできないそうよ。あなた、見放されたのよ」。
データの数値化を求めたり、相手の言葉を二者択一的論理で解釈したりするこれらの言語行動も、やはりデジタル的と名づけてよいのだろう。早合点や思い込みはだれにでもあるし、誤解することもある。飛躍の果てに逆上することもあるかもしれない。しかし、デジタル的言語行動というのは、そうした一時的な現象ではない。「デジタル派」は、表面に表れたことがら、すなわち額面に忠実で、微調整がきかないというか、想像力を働かせてコミュニケーションをとるということをあまりしないようなのだ。
敬語使用の場でも、このようなデジタル的言語行動が散見する。決められた場面で決められた表現を使うという、額面重視で、情緒的関係をおろそかにしかねないマニュアル敬語などはその代表だ。敬意表現が情緒的関係から切り離されてしまっては本末転倒だが、マニュアル敬語には、この種の矛盾に陥る危険がつきまとう。客に向かって微笑むどころか、一瞥もくれずに、「いらっしゃいませ。こんにちは」 と挨拶の言葉を発すること、おつかいに来た子供に、「千円からでよろしいでしょうか」とか「またお越しくださいませ」などと言うこと、一人でファストフード店に来て七、八品注文する客に、「こちらでお召し上がりでよろしかったでしょうか」とたずねることなどは、デジタル的な言語行動の最たるものだ。

今、もっとも頭に浮かんでいることは、ナンシー関氏のことだ。こうした内容へのアプローチが上手かった彼女が、いったいなんと表現してくれることだろうか。