[NO.1133] 言葉の煎じ薬

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言葉の煎じ薬
呉智英
双葉社
2010年6月20日 第1刷発行

『言葉の常備薬』に続いての「正しい日本語シリーズ」です。

初出は「小説推理」2005年10月号~2009年11月号までの全50回の連載に加筆修正した。ということで、いかにも筆者らしい在野からの書。

『封建主義』『インテリ大戦争』『読書家の新技術』と30年くらい前に立て続けて出たころ愛読していましたが、久しぶりに読む「呉智英」氏の本です。感想はなんだか高島俊男氏に近づいてきたような。相変わらずのアカデミズム批判が面白し。

たとえば、下記引用文に出てくる「俗流字解」について。
農学部の先生が、旧字も知らずに字義解釈しているのを指摘しています。たしかにありそう。あははでした。これでは落語の床屋談義と変わらないかな。以下に引用します。

p174 擬似科学と擬似漢字学
つい先日、二〇〇八年十二月三日夜のことである。原稿がなかなか書き上がらない。深夜を過ぎ、日付の上では四日の早朝となった。ここらで一服、お茶でも飲むか。熱いお茶を口にしながら、ラジオをつけた。前夜から続くNHKの「ラジオ深夜便」である。これは愛聴者の多い番組だ。若者向きの騒がしい深夜放送とちがい、静かで押しっけがましさがなく、穏かな教養主義も好ましい。私自身も何夜か出演したことがある。好番組ではある。しかし、時々俗流精神訓話みたいなものが入るのは、ちょっと......。
この夜(というより早朝)は、東海大学農学部の片野學教授が「農と食」といったテーマで話をしていた。日本の農業は農薬と化学肥料に頼りすぎで、田畑は疲弊してしまった。田畑の力を回復させ、農村を再生させなければならない。片野教授は、そう力説する。これはほぼそのまま賛成できる。しかし、そこから「食」の話になると、少し様子がおかしくなっできた。
片野學教授は玄米食を推奨するのだ。確かに、玄米には白米にはない栄養分が含まれているが、その栄養分は必ず玄米から取らなければいけないわけではない。白米と他の食物の組み合わせで十分に栄養の摂取ができる。しかし、片野教授は玄米食のすばらしさを力説、さらに肉や卵を食わない菜食主義まで主張するのだ。宗教上の理由から菜食を主張するのなら、わからないでもない。その菜食の根拠は戒律である。しかし、片野教授は健康の維持を根拠とする。玄米食・菜食は健康によいのだと。本当だろうか。
日本人はほんの数十年前まで、白米を十分に食べることもなく、肉や卵や牛乳も普段は食べられず、その結果、寿命も短かったではないか。白米も肉も卵も牛乳も不自由なく食べられるようになって、日本人の寿命は飛躍的に延びたのである。成人病が多くなったのは、玄米食や菜食をやめたからではない。寿命が延びたからである。白米や肉や卵や牛乳を食べ、成人病が出る年齢まで生きられるようになったからである。
片野學教授は桜沢如一(ゆきかず)の「玄米正食(せいしょく)」にも言及した。桜沢如一は一種の神秘主義者(オカルチスト)である。だいたい、桜沢自身、一九六六年に七十二歳で死んでいる。その時代では短命というほどではないが、決して長寿でもない。現代なら全然長寿とは言えない。玄米食と菜食をしていても、長寿は保証されないのだ。
片野學教授の説くのは、「少欲」の精神訓話と疑似科学の融合物である。そして、この手の人たちは、えてして俗流字解が好きである。
片野撃教授は、「食」の重要性について考えていた時、はたと気づいたと言う。「食」とは「人」に「良」という意味だ。人に良いものが食べ物なのだ。この字に先人の知恵が込められていたのだと。
困ったものである。
「食」は、今はこの字が通用している。しかし、食偏(しょくへん)では「饉」と書くように、かつては「[「食篇」の旧字体]」とも書かれた。全然「人」に「良」ではない。しかも、本来は「[「∧」+「百」+「ヒ」]」と書いたと漢和辞典に出ている。ますます「人」に「良」ではない。「食」の下の部分は食器の形を表わし、上の部分は、その蓋(ふた)、あるいはショクという音(おん)を表わす。先人の知恵を調べれば調べるほど、「人」に「良」ではないことが明らかになる。
片野學教授は、さらに支那の古典からこんなことにも気づかされたと言う。
「粕(かす)」という字は、米が白いと書く。精白した米はカスなのだと。
これまた困ったものである。「粕(はく)」は米の薄片。薄(はく)と白(はく)で音が通じている。米を「拍(う)」って精米した時に出る残りかすという意味も重なっているだろう。いずれにしても、精白した米が本体であり、粕はその残りかすなのである。本体と残りを逆に解釈しては話にならない。
片野準教授は、やはり支那の古典からこんな発見までしたと言う。
「糠(ぬか)」という字は、健康によい米なのだと。
またまた困ったものである。「康」は脱穀精米する手と杵(きね)の形を表わす。従って「米」と「康」で「糠(ぬか)」である。「康(やす)らか」と読むのは、米が穫れ、精米され、それで人々が「康らか」な気になるからである。精米されていない玄米では「康らか」さは足りない。
それにしても、疑似科学に走る人は、科学的思考を侮っているし、人文的思考をも侮っている。

「俗流字解」=いかにもどこぞの朝礼訓話で述べられそうなこと。

しかしなあ、この手の内容というのは続けていくと、だんだん些末的な迷路へ入り込んでいくような気がするのです。