セプテンバー・ソングのように/1946-1989 小林信彦 弓立社 1989年9月12日 第1刷発行 |
再読なのだが、それがいったいいつごろ読んだのか皆目検討がつかない。おそらく10年くらい前のことか。
週刊誌に著者が掲載しているエッセイをまとめて単行本化している一連のものとは違う。1989年の時点で、それまでに書いたものをまとめた内容なだけに、読みでがある。
第1部で、アンチ原発や煙草をめぐる文章を読むと、スポンサーがらみからいって、とても売れるとは思えず。それでも書くという姿勢が著者らしい。
『危険な話』『東京に原発を!』『原発ジプシー』の3冊、懐かしいといっては語弊があるが。今やこれらの本は話題にすらなることはない。
著者の弱点としてタイトルの付け方が挙げられるが、本書の題名についての解説は巻末「解説風のあとがき」にもある。もちろん本文中に掲載されている「セプテンバー・ソングのように」の最後に触れてもいる。しかし、こちらの趣旨である荻昌弘氏が亡くなったことについての記述があまりにも切ないだけに辛い。
どうして今ごろになって映画化されるのかわからない『ノルウェイの森』。出版されたのは1987年。「批評家というものは面白いことがわからないんだ。(ハワード・ホークス)」という引用からはじまる「『ノルウェイの森』を読む」が「本の雑誌」に掲載されたのが1989年3月号。
今読んでも、当然のことながら面白い。
「自己流に生きて」中の自動車を持たないことについての意見、面白し。
p102
給料もほぼ同じ、住宅事情も大して変わらぬとすれば、他人と競争でき、差をつけられるのは、〈良い車〉だけなのです。
私は自分がまったく、そういう趣味がないので、冷静に見ていたのですが、自動車会社の広告やテレビCMに、大の男が、あっさり乗せられてしまうのは、どういうことだろうかとフシギに思ったものです。
これら自称〈カー・マニア〉は、じつは、車が好きなのではないのです。車という名前の物神を信仰しているだけなのです。
久しぶりに目にした「物神」という単語。1970年代初頭に青春出版社の本のために書き下ろされたというのだから、やはり売れそうにない。
さらに、同文章から物神がらみで続けて引用。
p112
その私も、昭和三十年代に入ると、なんとなくテレビが持てるようになる。テレビを見れば、CMも見ますから、いやでも消費欲を刺激されるようになる。
みなさん、誤解しているようなのですが、テレビというのは、なにか文化的なものであって、そこに商品CMというものがくっついていると考えられがちのようです。これは大きなマチガイでありまして、テレビの時間を買い切ったスポンサーは、できれば、CMだけを流したいわけです。
しかし、それでは、視聴者が飽きてしまうだろうと考えて、ドラマやショウを見せ、ときどきCMを見せるのです。じつは、あれは、CMとCMのあいだの詰めものとしてドラマやショウがあると考えるべきなのです。
はっきりいって、こんな狭い国土の中に、こんなにテレビがあって、沢山の局が番組(というよりCM)を流すのですから、欲望が刺激されないほうがおかしい位です。その意味では、テレビこそ、〈消費時代〉の最大の兵器でした。
↑民間テレビ局初期にかかわった著者の弁。
p159 山下洋輔「ピアニストに御用心!」――山下洋輔の文体――
「ピアニストを笑え!」中の或るエッセイに、桂文楽のではなく、古今亭志ん生の「寝床」が出てくるが、さいきんはテープで容易に入手できるものの、志ん生の「寝床」に触れた文章をぼくはほかに知らない。ぼくより十歳若いはずの著者が、どこで耳にしたのか、ふしぎであった。
↑こういうところが怖い。
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p242「解説風のあとがき」と「初出一覧」抜粋へのリンク。
小林信彦ファンサイトがどこかにあったはず。で、今回見つかったので、忘れないうちにリンク。
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