[NO.1115] みんなCMを歌っていた

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みんなCMを歌っていた/大森昭男ともうひとつのJ-POP
田家秀樹
徳間書店
2007年8月31日 初刷

初出

※本書は『熱風』(編集・発行スタジオジブリ)の2004年1月10日号~2006年2月10日号までの連載に加筆し、再構成したものです。

446頁というこの厚みで1900円というのはお買い得。しかも、巻末には「大森昭男制作CM全作品リスト1972-2007」付。一気呵成に読了。CM音楽の歴史だけでなく、その時々の音楽史も解説してくれるので、こちらの好きな名前が出てくるとわくわく。

小林亜星氏の話もよかったけれど、「はっぴいえんど」ファンに加えて大瀧詠一CMファンなので、サイダーからシュガーベイブへと続くところは圧巻。
第6章「三ツ矢サイダー」での出会いから「熱き心に」まで 対談大瀧詠一VS大森昭男 は裏話も興味深し。

p047 三ツ矢サイダー

1972年、彼らは、10月に三枚目のアルバムのレコーディングをロサンジェルスで行い、その過程で解散を決めた。「HAPPY END」と題されたそのアルバムが発売されるのは1973年1月。大瀧詠一はそれに先駆けて1972年12月にソロアルバムを発表した。大森昭男が彼に「コマーシャルソングをやりませんか」と持ちかけたのはそんな時だった。
「朝日時ぐらいだったと思います。コマーシャルソングをお願いしたいんですけど、って大瀧さんの自宅に電話をしましたね。『何でしょう』『三ツ矢サイダーです』。ちょっと間があって『分かりました』と。『で、詞はどなたが』『鶏郎門下の伊藤アキラさんです』っていう話をしました」
伊藤アキラは、広告関係者の中でもフォークに理解を示していた一人だった。
「フォークのコンセプトは〝生活歌〟だと思ってましたからね。鶏郎さんの作っていたコマソンも生活歌でしたから、全く違和感なかったですよ」
そういう伊藤アキラも、大森昭男から「大瀧詠一です」と言われた時、彼の名前も知らなかった。とはいうものの、彼も「どういう人ですか」とは聞かなかった。大森昭男は「色々注文を出すと思いますけど」とだけ付け加えた。そして、伊藤アキラは二回目に大森昭男から電話を受けた時、大瀧詠一からの〝注文〟を聞かされた。
「始まりの音は母音の〝あ〟で始めてくれということでしたね。三音四音の組み合わせで最初は〝あ〟。自分でも歌う人ですからイメージがあったんでしょうけど、かなり厳しい注文でした(笑)」
なぜ〝あ〟だったのか。
2000年に『コマーシャルフォト』で掲載した「日本のCM音楽50年」の取材で会った大瀧詠一はそんな質問に、「まだ現役を続けるつもりだから」と笑って明かそうとしなかった。
ただ、ヒントは残されている。彼は、「サイダー」の話が来た時の彼の状況を「解散は決めたものの次の仕事は決まっておらず、しかも子供が生まれるという大変な状況で、解散決定後、最初の仕事だった」と言った。
はっぴいえんどの傑作であり日本のロック史上の名盤とされている二枚目のアルバム「風街ろまん」には、大瀧詠一が初めて書いたオリジナルという「愛餓を」という曲が入っている。そして、一曲目の「抱きしめたい」は〝淡い光が 吹き込む窓を〟という歌詞で始まっている。はっぴいえんどの言葉を書いていたのは松本隆だった。彼は、1983年に音楽評論家、萩原健太が書いた『はっぴいえんど伝説』(八曜社)の中で、「見破られない形で七五調をやる」と自分の手法を語っていた。
解散後の初仕事を 〝あ〟 で始まる三音四音の組み合わせにする。
それは、彼の第一歩という意識の表れであり、はっぴいえんどで掴んだ方法論の実践だったのではないだろうか。
〝あなたがジンと来る時は
私もジンと来るんです〟
伊藤アキラが書いた歌詞は、見事にそんな条件を満たしている。
1973年2月26日、青山のKRCスタジオ。大森昭男の手元には「サイダー73」のそんなレコーディングデータが残されている。
一年持たないのではないか――。
発足二年目。CMソングの歴史に残る名作「サイダー'73」が、ON・アソシエイツのその後を決定づけたと言って過言ではないだろう。

萩原健太が書いた『はっぴいえんど伝説』(八曜社)、新刊で購入したが、その後、どこにいったやら。