映画×東京とっておき雑学ノート/本音を申せば 小林信彦 文藝春秋 2008年4月25日 第1刷発行 |
■初出誌*「週間文春」二〇〇七年一月四日・十一日号~十二月二十七日号
何年か前の元日、日本橋人形町から両国橋まで歩いたことがある。甘酒横町の数軒しか店が開いておらず、昼食をコンビニで買って、浜町公園で食べた記憶が残っている。「下町は食べ物天国」('07・6・14)なる記事はほぼ同じコースを歩いている。
タクシーに乗るのに、「近間(ちかま)ですいませんが、柳橋へ行ってください」なんて台詞がすっと出るところがいい。もっとも、ご本人に言わせれば、それが当然とおっしゃることでしょうが。
青島幸夫氏が亡くなったことに触れ、「谷啓さんがつらいだろうなあ」と思ったと書いている。今年はその谷啓さんが亡くなった。
高校生だった敗戦直後の神保町に触れているところ、面白し。こうした想い出話がいい。
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ふつうの本は、とてつもなく高かった。古本は紙が良いから、もっと高い。そうした古本が集っている街が戦火を逃れたのだから、神保町は神秘的な存在になっていた。一誠堂書店という店は、今でも、外見が当時と変っていない。ということは、戦前の建物なのだろう。ぼくはここで、太宰治の「晩年」の初版本を買った。ぼくのポケットマネーで買える値段だった。死後の太宰はブームになっていたが、初期の作品が値上りするまでには行っていなかったのだろう。
ぼくがよく知っている〈神保町〉はそういうものなので、現在とはまるでちがう。
荒れているとか、そんなことを言っても仕方がない。別な角度から話をしよう。
神保町は、ぼくにとって〈映画館の街〉でもあった。学校の帰りに、映画館に立ち寄るのがふつうであった。戦前はインテリ相手だったせいか、ここには良い映画館があった。
良い映画館というのは、入口でただのプログラムをくれて(当時はふつうのことだが)、客席の品が良くて、適当に混んでいるものである。
岩波書店の裏の東洋キネマがその一つだった。
東洋キネマはノートルダム寺院の一部のような暗い外見で、後年、バブルの時に土地が奪い合いになったことで有名だ。もちろん、この時には映画館は閉鎖されていたのだが、往年は徳川夢声が弁士として在籍したこともある都内の名門映画館だった。
ここで観た映画は「モロッコへの道」、ラス・タンブリンの、というよりも、デピー・レイノルズ、ジェーン・パウエルの「艦隊は踊る」がすぐに想い出されるが、イタリアン・リアリズムの映画も観た。
都電の道に画した神田日活も大きな映画館だった。一誠堂書店の向い側のあたりだったろうか。現在では見当がつかない。
焼跡から立ち直ったチマチマした映画館の多い時代には、ガランとした倉庫のような感じが珍しく、「モロッコ」の再上映や、「荒野の決闘」の封切、エリア・カザン監督の「大草原」はここで観た。同じ映画を上映して、池袋の映画館で満員でも、神田日活では、ゆっくり観られた。神保町は盛り場ではない、ということかも知れない。
もう一軒、お茶の水の方に上ったところのシネマパレス――これはぼくの父親の世代にとっての名画座であった。名画座という呼び方はシネマパレスから出たのではなかったか。
戦時中はドイツ映画、フランス映画(?)を上映していたと記憶するが、戦後はインテリ相手のフランス映画ではやっていけないのか、ソ連映画の「汽車は東へ行く」や、同じソ連のアニメ「せむしのこうま」を上映し、それはそれで楽しめた。忘れられないのは、ぼくの成人の日に、ここで「ダーザンの復讐」の再上映を観ていたこと。成人の日なんて知るか、という気特からだったが、ターザンの重役のモーリン・オサリヴァン(ミア・ファーローのお母さん)がヌードになったのには驚いた。神田には、古い建物がまだ残っている。有名なところでは、須田町にある伝統的な味覚の一角で、このあたりは空襲で焼け残ったプラスをバネにして、古い建物のまま頑張っている。
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一月二日の赤坂豊川稲荷、三日か四日に神田明神という初詣から始まって、酉の市まで。結構出かけている。初詣は欠かしたことがないとも。
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