物情騒然。/人生は五十一から 小林信彦 文藝春秋 平成14年4月15日 第1刷 |
初出誌*「週刊文春」2001年1月18日号~12月27日号
やや古い感じがするものの、小林信彦節は全開。
p17
時間というものは伸び縮みする、というのがぼくの実感である。
たとえば、一九六一年のある長い一日をぼくは一瞬まえのように克明に覚えているが、一昨日のことはケロッと忘れている。それは歳をとったからだ、と嗤(わら)われるかも知れないし、たぶん、そうでもあるのだろう。
しかし、実は、若い時からそうなので、そのころは(かりに一九六一年とすれば)、一九四〇年代のある一日、ある瞬間の人々の表情、言葉が鮮明によみがえり、
「なんか、異常なんじゃないの?」
と人に言われた。
いってみれば、(過去)の一瞬一瞬に執着するたち(「たち」に傍点)なのである。
そういう人間にとって(未来)というのはほとんど興味が持てないものであり、三十年ぐらい前の(未来学ブーム)の時は、なんと無意味なことをやっているのだろうとさえ思った。今でも、軍事競争的な意味がなければ、宇宙へ行ったりするのも全く無駄に思える。そんな金があったら、地球上の古い街をそっくり保存するとかして、(過去)の延長としての現在に投資する方がよほど意味があるだろうに......。
マルセル・プルーストという、日本ではほとんど読まれない大作家や、ジャック・フィニーという幻想作家にぼくが親近感を抱くのは、そういう(過去への執着)があるからだ。
どうも正月らしからぬ文章に読者が違和感を抱かれたとしたら、屠蘇(とそ)のせいとしてごかんべんねがいたい。 (01・1・18)
「ある一日、ある瞬間の人々の表情、言葉が鮮明によみがえ」るというのは小説家としての才能のひとつであるとも言われているが、一種の気質であろう。しかし、今回目をひいたのはそこではなく、「ジャック・フィニーという幻想作家にぼくが親近感を抱くのは、そういう(過去への執着)があるからだ。」というところ。
小林信彦氏がジャック・フィニーに言及しているのは、他にもあったかな。『本は寝転んで』あたりを再再読してみないと、何ともいえないけれど。もともとスペースオペラよりも、タイムトラベルものに強い関心があるような記述を前にもみたことがあったし。
なによりもおかしかったのが、「三十年ぐらい前の(未来学ブーム)の時は、なんと無意味なことをやっているのだろうとさえ思った。今でも、軍事競争的な意味がなければ、宇宙へ行ったりするのも全く無駄に思える。」というところ。山本夏彦翁の『何用あって月世界へ―山本夏彦名言集』を思い出し、苦笑。発想が似ている。
p202
志ん生、文楽、可楽たちがいなくなり、テレビ界が落語をほぼシャットアウトした時、志ん朝の志ん生襲名の噂、いや、さらに圓朝という大看板襲名の噂まで出たが、いつの間にか消えた。業界を盛り上げるどころか、人間関係をずたずたにするような事件さえおこった。〈古典一筋〉は時代遅れ、と石を投げる幼稚な〈評論家〉が現れ、戦時中から落語界の変遷を熟知している故・江國滋は、荒れたその世界を離れた。そうした江國滋にまで石を投げる〈自称天才〉の落語家がいた。
ここでいう、「幼稚な〈評論家〉」「そうした江國滋にまで石を投げる〈自称天才〉の落語家」とは誰のこと?
p253
しかし、民衆の九割が〈ブッシュの戦争〉を支持しているアメリカにも、チョムスキーやドーフマンやスーザン・ソンダク(若いころはアメリカ文学界のナタリー・ウッドと呼ばれていた)のような人がいる。
へーえ。あのスーザン・ソンダクの若いころは「アメリカ文学界のナタリー・ウッドと呼ばれていた」のですか? びっくり。
表紙絵は弟君の泰彦氏。
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