遅読のすすめ 山村修 新潮社 2002年10月25日 発行 |
『遅読のすすめ』とはまあ、よくぞつけたタイトル。まるごと1冊、「遅読のすすめ」について述べている本。充分に満ち足りた遅読を味わって読了。楽しかった。8年も前に、こんなにも味わい深い本をペンネーム狐こと書評家の山村氏が出されていたとは。
遅読派の対極として取り上げられているのが、福田和也氏『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』と立花隆氏『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』。
しかし、立花氏がかつて好きな詩人として立原道造を挙げていたことを考えると、この人だって味わって読む楽しみを十分にわかっているはずなんだがなあ。
で、山村氏のいう読書と彼らの読書との違いについて。
p45
必要があって本を読むとき、私はそれを読書とは思っていないのだ。それは「読む」というのではなくて、「調べる」というのではないか。あるいは「参照する」というのではないか。
たとえ一冊を読み、企画書なりレポートなりに役立てることがあっても、私にはそれをもって読書とする感覚がない。もちろん必要があってのことだから、拾い読みもするし、飛ばし読みもする。しかし、一冊を拾い読みしたあと、私はそれを読書の冊数としてカウントなどしない。私だけではないだろう。世間一般ではそれを読書とみなさない。
まちがっていたら申しわけないが、ひと月に最低百冊読むと福田和也がいうとき、その百冊には、仕事のために本の一部分を調べたり、参照したりするものまで、すべてカウントされていると思う。そんなものまで読書のうちに数えるか、ふつう。
立花隆や福田和也をはじめとして、速読や多読をとなえる人たちは「必要」というな鉈(なた)をふるって、いつも本をざっくざっくと景気よく割ったり砕いたりしているようだ。
上記を読み、なんだか納得。「調べる」「参照する」のと「読書」は違うのだ。そりゃそうだ。 そんなものまで読書のうちに数えるか、ふつう。 というときの山村氏、なんだか悪意に近いものすら感じるなあ。
p119
ゆっくり読むことと、のんびり読むこととはちがう。とっておきのお茶を沌(い)れ、快適な椅子にすわり、お気に入りの音楽を聴きながら、おもむろに本を開き、くつろいだ読書の時間を味わう。そのような過ごしかたを、私はほとんど体験したことがない。私の部屋には、そもそも椅子がない。どうでもいいことだが、本を読むときは畳の上に正座である。机は卓袱台(ちゃぶだい)である。
たぶん、くつろいだ読書を味わうにも才能が要るのだ。自分のまわりに快い要素を呼びあつめることのできる人、そうして心身を自在に休ませることのできる才能をもっている人だけが、日常的にゆったりくつろいで本を読むことができる。そうでない私は、夜は畳の上に正座して足をしびれさせながら、朝夕は通勤電車のざわめきに身をまかせながら、本を読む。そうして皮膚感覚はいささか緊張させながら、息をととのえつつ、ゆっくり読む。
さらに、上のような記述を読むと、今度は別の違和感を覚える。本て、楽しむものと違うの?
※ ※ ※
p120
早く読んでいては気がつかない一節も、ゆっくり読むことで目をとめることができる。はっとおどろくこともできる。たとえば岩波文庫の柳田國男『木綿以前の事』は、国文学者・益田勝実が「解説」を書いているが、これは解説文のなかの傑作である。読んでいると、益田勝実という人の読みかたが想像されておもしろい。明らかにゆっくり読む人であると思う。p123
話はそれるが、かつてこの益田勝実と梅原猛とが論争をしたことがあり、それは小谷野敦『バカのための読書術』に紹介されているのだが、その論争ぶりがおもしろい。小谷野の文章に教えられて、二人の応酬がのった「文学」一九七五年四月号、十月号、十二月号のコピーを、私もただちに手に入れた。p143
作家の北村薫はもしかすると、遅読の人である。雑誌「ユリイカ」高野文子特集号にのった文章を読み、そう思った。「《るきさん》はどこから旅立ったのか」と題した一文である。p147
北村薫は本をたのしむ人である。声高でなく、その文章のはしばしで、そっと自分のたのしみかたを語ろうとする。
そして高野文子もあきらかに本をたのしむ人だ。『黄色い本』では、マルタン・デュガールの大河小説『チボー家の人々』を読みつづける一人の女子高生をとおして、ひりひりと痛いくらいに幸福な読書を描いてみせた。
巻末に掲げられている、本文で取り上げた書名もいい。本文での取り上げかたは十分、書評として参考になる。
引用した本
(引用にあたって漢字は字体を新字にあらためたものがあります。かなづかいはそれぞれの本の表記にしたがっています)
夏目漱石 『吾輩は猫である』 (『漱石全集』第一巻 岩波書店一九九三年)
柄谷行人ほか 『必読書150』 (太田出版 二〇〇二年)
福田和也 『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』 (PHPソフトウェア・グループ 二〇〇一年)
立花隆『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』 (文藝春秋 二〇〇一年)
エミール・ファゲ 『読書術』石川湧訳 (春秋社一九四〇年)
遠藤隆吉『読書法』 (巣園学舎出版部一九一五年)
ヘンリー・ミラー『わが読書』 田中西二郎訳 (『ヘンリー・ミラー全集』第十一巻 新潮社 一九六六年)
チェーホフ「殺人」原卓也訳(『チェーホフ全集』第十巻 中央公論社 一九六〇年)
フローベール 『ボヴァリー夫人』伊吹武彦訳 (岩波文庫 一九六〇年)
小林秀雄「読書について」 (『現代教養講座』4「読書のすすめ」角川書店一九五七年)
高橋新吉「貪埜な欲望」 (同)
ギッシング 『ヘンリ・ライクロフトの私記』平井正穂訳 (岩波文庫 一九六一年)
ヴァレリー・ラルポー『罰せられざる悪徳・読書』岩崎力訳(コーベブックス 一九七六年)
波多野精一『西洋哲学史要』 (大日本図書株式会社 一九〇一年)
『ヴィヨン全詩集』鈴木信太郎訳 (岩波文庫 一九六五年)
田中菊雄『現代読書法』 (三笠書房 一九六三年)
内田百閒『阿房列車』 (『内田百聞全集』第七巻 講談社 一九七二年)
新庄嘉章「ジイドの読書法」 (『現代教養講座』 4 前出)
吉田健一『時間』 『交遊録』 (『吉田健一集成』第3巻 新潮社 一九九三年)
吉田健一「本のこと」 (『吉田健一 友と書物と』清水徹編 みすず書房 二〇〇二年)
幸田露伴『努力論』 (岩波文庫 二〇〇一年)
川上弘美『センセイの鞄』 (平凡社 二〇〇一年)
武田百合子『富士日記』 (中央公論社 一九七七年)
武田百合子『ことばの食卓』野中ユリ画(ちくま文庫 一九九一年)
ヴァルター・ベンヤミン 「食物」藤川芳朗訳 (『ヴァルター・ベンヤミン著作集』 11 晶文社 一九七五年)
杉浦明平「一月・一万ページ」「『一月・一万ページ』改訂の記」 (『本・そして本』筑摩書房 一九八六年)
本多秋五「明平さんとカレーライス」 (玉井五一・はらてつし編 『明平さんのいる風景』風媒社 一九九九年)
鶴見俊輔「黒い怒りのゆくえ」 (同)
杉浦明平編『立原道道詩集』 (岩波文庫 一九八八年)
杉浦明平「最後の晩餐」「鶏の水炊き」 (『偽「最後の晩餐」』筑摩書房 一九九二年)
倉田卓次『続 裁判官の書斎』 (頸草書房 一九九〇年)
柳田國男『木綿以前の事』益田勝実「解説」 (岩波文庫 一九七九年)
小谷野敦『バカのための読書術』 (ちくま新書 二〇〇一年)
益田勝実『説話文学と絵巻』 (三一書房 一九八〇年)
上原専緑『クレタの壷』 (評論社 一九七五年)
『法華経』坂本幸男・岩本裕訳注(岩波文庫 一九七六年)
尾崎一雄「虫のいろいろ」「かまきりと蜘妹」 (『美しい墓地からの眺め』講談社文芸文庫 一九九八年)
尾崎一雄『志賀直哉』 (筑摩書房一九八六年)
北村薫「《るきさん》はどこから旅立ったのか」 (「ユリイカ」特集・高野文子 青土社 二〇〇二年七月号)
高野文子『るきさん』 (筑摩書房 一九九三年)
高野文子『黄色い本』 (講談社アフタヌーンKCデラックス 二〇〇二年)
池澤夏樹『読書癖1』 (みすず書房 一九九一年)
関川夏央『石ころだって役に立つ』 (集英社 二〇〇二年)
倉田卓次『裁判官の書斎』 (頸草書房 一九八五年)
北村薫『詩歌の待ち伏せ』上 (文藝春秋 二〇〇二年)
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