[NO.1041] 書評家〈狐〉の読書遺産

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書評家〈狐〉の読書遺産/文春新書552
山村修
文藝春秋
2007年1月20日 第1刷発行

もしも書評集を読んだ読者を実際に読みたくさせたのだとしたら、書評家にってこれほど喜ばしいことはないでしょう。

p143
「こんなに面白い本もあるのか」

『生物から見た世界』エクスキュル/クリサート著 日高敏隆・羽田節子訳 岩波文庫

一九三四年、ベルリンで出たときは生物学の入門書である。著者ユクスキュルの研究仲間クリサートの手になる絵がついて、副題は「見えない世界の絵本」とつけられた。
その本、『生物から見た世界』が、じつに生物学の入門書の域をはるかにこえ、人文科学のあらゆる分野の研究者たちにも知的な痛撃をあたえることになる。思想史家・生松敬三のエッセイ「生物学者は何を見たか」(「中央公論」一九七五・二月号)によれば、もっとも早く読んだ日本人の一人は、評論家――というより『ビルマの竪琴』で知られる作家――の竹山道雄であったらしい。
原著を読んで竹山道雄はおどろいた。「こんなに面白い本もあるかと思った」と書き、ユクスキュルを「人間の謎の解明の手がかりをあたえた」生物学者であると称えている。
ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは一八六四年、エストニアに生まれ、一九四四年、イタリアのカプリ島で死去。在来のアカデミーからは疎外されながら動物の比較生理学的研究をユニークに展開した。
その思想的な最高の贈りものが「環世界」という考えだ。この考えに立つと、たとえば「日光がさんさんと降りそそぐ日に甲虫が羽音をたてチョウが舞っている花の咲きみだれる野原」というカラフルな光景から、あらゆる色彩が消える。その光景の中のすべての関連性が失われ、あたらしいつながりが創られる。つまり私たちが環境と思ってきたものがかわる。自然が、世界が、組み換えられる。
そのことを具体的に記すためにユクスキュルがはじめに挙げたのが、この本でもっとも有名な記述の一つ、ダニの例だ。視覚も聴覚もなく、樹の小枝にぶらさがって哺乳類が下をとおるのを待つダニにとって、獲物に食いつくまでに必要なのは三つの刺激だけだ。
一つは哺乳類の発する酪酸(らくさん)の匂いである。それを感知するとダニには枝から足を離すという行動が生まれ、哺乳類の上に落下する。二つめはぶつかった晴乳類の毛の衝撃によって与えられる触覚である。三つめは、毛のない皮膚に行きついたときの温度である。その、温かさによって、皮膚に食い込んで血をたらふく吸うという行動がおこる。
血を吸えば産卵してダニは死ぬ。つまり、ダニにとっては三つの刺激だけが暗闇の世界で信号のように明滅し、それぞれに応じた行動を引き出しながら産卵に至るまでの道しるべになるわけだ。そしてあらゆる動物がそのように環境の全体でなく、「環境から切り出されたもの」の中を、すなわちそれぞれの環世界を生きている、というのがユクスキュルの考えだ。環世界ごとに「時間」もちがう。小枝の下を哺乳類がとおるまで十八年(!)も待ったダニがいるという。
小枝にぶら下がったままの十八年は、人間からすれば「停止」しているのとおなじだ。ふつう、時間は客観的に存在するもので、時間なしに生きている主体はありえないといわれてきた。しかしじつは「生きた主体なしに時間はありえない」とユクスキュルはいう。主体があればこそ、その主体の環世界に独自の「時間」が動く、と。
環世界ごとに「空間」もちがう。たとえばキリギリスを狩るコクマルガラスの知覚世界には、なんと静止したキリギリスのすがたは認識されていないという。跳んではじめて、キリギリスが背景から浮かびあがって知覚される。つまりコクマルガラスの環世界からは、空間的には、静止した昆虫の形は確実に抜けおちていることになる。
総じて、この世界が一つであって、そこに人間や諸生物がすべて同一の時間・空間を生きているという幻想を、この小冊子はじつにみごとにくつがえす。
思索社版の旧訳(一九七三)に併載されていた「意味の理論」には、クモの巣がハエの体のサイズなどに応じて設計され、なおかつハエ自身には知覚されないように出来ていることが記されていた。それについてドゥルーズ/ガタリは『千のプラトー』(河出書房新社 一九九四)で、音楽用語をつかって、「(クモはまるで)蝿の『主題』を、蝿の『リトルネロ』を考慮しているかのようだ。(略)自然は音楽に似ている」と書いている。すなわちクモの巣のメロディーには、ハエの体のメロディーが織り込まれている、と。美しい書きかただが、ユクスキュルはきっと、人間の環世界にも人間には認識のおよばない「クモの巣」が張りめぐらされている、という思いに駆られていたことだろう。そう考えると、なおさらにスリルをおぼえる。まさに「こんなに面白い本もあるかと思った」なのである。

っというわけで、この一節が忘れられず。

まだまだ、こうした面白本って、あるのですねえ。めったに出会わないだけで。