[NO.1008] だから人は本を読む

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だから人は本を読む
福原義春
東洋経済新報社
2009年9月24日 発行

版元が東洋経済新報社で、著者の肩書きは資生堂名誉会長。で、ちょっと侮っていたけれど、そうでもないかな。

第四章 私が影響を受けてきた本 から目次を抜粋すると、なんとなく雰囲気がわかるかも

ラ・ロシュフコー『ラ・ロシュフコー蔵言集』
カエサル『ガリア戦記』
鴨長明『方丈記』
リチャード・ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん』
寺田寅彦『電車の混雑について』
司馬遷『史記』
アゴタ・クリストフ『悪童日記』
川喜田二郎『パーティー学』
ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』
萩原朔太郎『猫町』
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
アルチュール・ランボー『地獄の季節』
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』

川喜田二郎『パーティー学』が目を引いたかな。いかにも、この世代の経営者が昔に読んだ本。話には聞いたことがあったけれど、21世紀の現代に目にするとは。

p57
日本の豊かな教養人の系譜
明治の教養人については、坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛(つむじ)曲り』(マガジンハウス)に詳しい。
夏目漱石、正岡子規、尾崎紅葉、幸田露伴、斎藤緑雨(さいとうりょくう)、宮武外骨(みやたけがいこつ)、南方熊楠(みなかたくまぐす)。同じ慶応三年(一八六七年) に、これらの近代日本の代表的な人物が誕生している。一人ひとりを説明しないが、彼らは寺子屋に象徴される江戸の市民文化や和漢籍に親しみ、その基礎体力の上に西洋の文明文化を重ねたハイブリッドな世代だ。
福澤諭吉はそのような時代の節目に生きた変革の世代を、「一生に二生を生きる」と表現している。彼らは知識と体験が重なった本物の教養人だが、江戸末期から明治にかけての一般市民に至る日本人の品格がいかに高いものであったかは、渡辺京二の名著『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)に詳しく書かれている。また、『ペリー艦隊日本遠征記』(万来舎)には、市井の人間から幕府の役人に至るまでの、当時の日本人を讃える言葉「忠実」、「勤勉」、「器用」などが数多く連ねられ、「将来この国が一等国になるのは間違いない」とまで書かれている。『ヨーロッパ人の見た幕末使節団』(講談社学術文庫)より、幕末の遣欧使節団に対するイギリスでの報道の一部をここに書き記してみよう。
「一行の驚くほどに物柔らかな挙措、礼儀正しさ......が、周囲の全員に強い感銘を与えた。(中略)実際、瞳目すべき一行全体の態度は、冷静沈着で、穏やかで、控えめで......どこに行っても人に尊敬の気持ちを起こさせる。」
言葉も通じず、知識や技術を披露したわけではない彼らが、初めて会う先進国の人たちにことごとく尊敬の念を抱かせるというのはどういうことだったのだろうか。知識を体験で知恵に変えた当時の日本人には、えもいわれぬ品格や風格があり、それは異文化を生きる人々にも通じる。つまり現代のグローバル社会でも色槌せない、日本人の教養ではなかったか。
江戸から明治にかけて花開いた日本の教養は、一九〇〇年(明治三三年)を境に、約五年ごとに英語で書かれた三冊の書物として世界をおどろかせる。
・内村鑑三『日本及び日本人』(のちに『代表的日本人』と改題)(原題 Japan and japanese)―― 一八九四年
・新渡戸稲造『武士道』(原題 Bushido)―― 一九〇〇年
・岡倉天心『茶の本』(原題 The Book of Tea)―― 一九〇六年
いずれも見事な英文で書かれた、明治の日本を代表する名著だ。この三名もまた、和漢の素養(素読、茶道、禅などを含む)の上に、キリスト教などの西洋の教養を重ねて身に付けた本物の教養人であった。
二回目のピークは、もう少し後、私よりも一回り上の世代にあたる旧制高校で花開いた教養主義である。実際に私が出会った教養人が著した本を挙げてみたい。
評論家山本七平氏は、七〇年代のベストセラー『日本人とユダヤ人』(筆名イザヤ・ベンダサン)を、近藤道生民は、戦中、戦後の体験を綴りながら、敗戦で日本人が失ったもの、美しい日本のこころを伝えるエッセイ『国を誤りたもうことなかれ』を著した。
以下略

どうも、渡部昇一氏風。