ちょっとヘンだぞ四字熟語/お言葉ですが(10) 高島俊男 文藝春秋 2006年3月10日 第1刷 |
すごいですねえ。具体的に書名や個人名を挙げてのご意見。そこが高島氏の特徴とはいえ、やり玉に挙げられた方はたまったものではないでしょう。
今回の一番の事例は斎藤茂吉の短歌について。
p192
先ごろの産経新聞(16・8・21)文化欄に、〈「白骨温泉騒動」考〉と題する文章がのっていた。筆者は札幌国際大学観光学部教授で温泉文化論の松田忠徳というかたである。
途中略
〈山峡のとおく入りきていでる湯の丘のはずれにけうも親しむ
斎藤茂吉
この仙境の秘湯、白骨の存在が全国的に知られるようになったのは、大正時代に中里介山が長編小説『大菩薩峠』に"白骨の巻"を書いて以来のことだ。〉
途中略
小生この歌を見てびっくりした。
意味がわからない。いや、通じない。いたるところヘンである。
「山峡の」の「の」は何の「の」か。
「とおく」は戦後のガキの書きようだ。茂吉の歌にこんな見苦しい表記は絶対あり得ない。
「いでる湯」とは何のことだ。「いで湯」はあるけれども「いでる湯」というのはない。「出(い)づ」の連体形なら「いづる」である。ことごとしく文法のセンサクをするまでもないことだが。
「はずれ」は何だろう。葉擦れる? しかし「丘の葉擦れ」というのも変だ。
「けう」にいたっては、もう笑うしかありません。
途中略
正しくはこうである。
山峡(やまかひ)をとほく入り來ていづる湯の丘のはだれにけふも親しむ
「山峡(やまかひ)」のふりがなは作者自身がつけたものだから、これは是非とも必要である。ふりがながなければ読者は「山峡(さんけふ)」と音(おん)で読む。
「はだれ」はまだら雪。
小生あらためて産経所載の文を見て、いったいこの新聞の文化部というのはどういうことになっているのだろうと、つくづく不思議にたえなかった。
松田氏の原稿は、文化部の担当記者と、校閲部の人と、すくなくとも二人の人が見たはずである(実際にはもっと多くの人が見ただろう)。文化部の人ならば、これが近代日本の歌人の作として不審なことくらいはわかりそうなものだ。
そのあと校閲が見る。
以下略
ぐうの音も出ないでしょう。
p204
文語の新かなは醜悪だ。「われらかく戦えり」などというのを見るたびにゾッとする。新かなを使うのなら口語で「われわれはこう戦った」とでも言ってもらいたい。文語の簡勁を選ぶのなら、「われらかく戦へり」である。
従来はいやいやながら文語部分も新かなで書くことが多かったが、だんだん憤懣が鬱積してきて、ちかごろは自分の感覚に正直に(多分論理にも忠実に)正かなで書くことが多くなった。「願はくは」は無論文語である。「願はくは花の下にて春死なん......」だ。
校正の神様(いや、女神様ですね)古沢典子(ふみこ)さんの『校正の散歩道』(日本エディタースクール出版部)に左のような所があった。岩波書店校正課の先輩「梅さん」の言葉をうつしたくだりです。
〈「生酔本性たがはず」というのはほんとだ。酔っているから分からなかったというのは嘘で、酔っぱらいは何だって承知しているんだ、......〉
「生酔本性たがはず」は文語だから、ここだけ正かなで書いていらっしゃる。「生酔本性たがわず」では字面が汚い。
古沢さんの文章は、現代口語文の文字表記の模範と言ってよい。その人の「たがはず」に、小生百万の味方を得た思いをいたしました。
高島氏がこうまで褒めるので、『校正の散歩道』が気になるところ。で、エディタースクール出版部サイトを調べてみると、紹介の頁に高島氏の本書からの上記引用個所が、同じように掲載されていました。なるほど。出版社にとって、これほどの喜びようはないかも。こちら。
この頁を見ていて、ちょっと気になったことが。本の表紙をスキャニングした画像が、ちょっとくすんでいます。これって、ときどき本サイトでも出現する現象。スキャナーの調子が悪くなると、どうしてもこうなってしまうのですね。スキャナーは同じままでも、PCの中身を入れ替えると直るのです。
【追記】
遅れましたが、上記の『校正の散歩道』を読んでみました。リンク、こちら
コメント