[NO.963] 北村薫の創作表現講義/あなたと読む、わたしを書く/新潮選書

01.jpg

北村薫の創作表現講義/あなたと読む、わたしを書く/新潮選書
北村薫
新潮社
2008年5月25日 発行

 著者北村先生の母校早大での講義テープを起こしたものだそうです。どうにも北村氏の生理的なリズムがゆっくりで、講演会のときには失礼ながら居眠りをしてしまったのですが、読書なら自分でコントロールできるのでいいですね。『詩歌の待ち伏せ』シリーズもよかったので、期待して読みました。
 北村氏の連想していく様子が面白し。ある言葉を目にし、それを起点に次から次へと連想が飛ぶことはよくあること。その様子を説明していくのですが、どうもこの方も前置きが長いのです。これって、高校の教室だったら生徒は飽きちゃったでしょうね。

 最後の「赤木かん子さんのこと」が秀逸。生原稿ともいえる、コピー。いやあなんともはや。

000.jpg

 ◆ ◆

p301
◇目覚めの瞬間
 手書きです。
 今は、ケータイ、パソコンの時代ですから、こういう形の文章を読むことが珍しくなりました。
 昔の学校のプリントつて、勿論、手書きでした。今の小学校の先生なんかは、どうなさってるんでしょうね。―― やはり、こうして見ると、人間の息遣いを感じます。感情に応じて、字が変わっていますね。手書きだと、それが作為でなく、自然ですね。
 そうだろう、そうだろう、という感じになります。
 で、これ、何から採ったかというと、赤木さんの出している「烏賊(いか)」という雑誌からです。これ、八十年代の初め――一九八三年だそうですが、赤木さんが年賀状代わりに、一人で作った雑誌なんです。そして、知り合いに配った。大好評で、それから続けることになった。《推敲なし、下書きなしの直書き》だそうです。言葉はすらすらと出て来る。出さずにいると、きっと《赤木さんの言葉》が苦しがるんですね。
 今なら、多くの人がブログで何かを書いたりします。その頃には、そんな手段はなかったわけです。
 わたしは、この雑誌のコピーを図書館の司書の方から見せていただきました。人から人へと伝わっていたんですね。すぐに、《コピーさせて下さい!》と叫びました。そういう風にして広まった雑誌なんですね。めぐりめぐって、わたしも今、ここで、あなた方に配ってしまいました。
 さて、「水飲み場の目覚め」です。
 人間は生まれてから、ある時までは、自分を中心に世界が回っていると思っています。わたしもそうだった。あなた方もそうだった。しかし、智恵がつく。林檎を食べちゃうわけです。成長すると、寝てはいられない。だから、どうしても目覚めちゃう。そうすると不幸が始まる。人は、《そうではないんだ》と気づく、哀しみの瞬間を持つわけです。今はもう覚えてなくてもね。
 誰もが、《人間》になる間のどこかで、その哀しみを乗り越えるわけです。
 それに比べると、赤木さんの場合はちょっと特別です。でも、似てはいる。心の中の、ある種の故郷のようなところで、これに似た瞬間って、誰もが持ってるわけですよ。今は忘れてでもね。だから共感があります。
 それからね、こういうところに来て、わたしの話なんか聞いてるわけですから、皆さん、本が好きでしょ。だとすると、この感覚って、ここまで極端でなくても、いわれれば想像出来ますね。


  本書も新潮社サイト内に紹介あり。こちら