蕪村 放浪する「文人」/とんぼの本 佐々木丞平・野中昭夫・佐々木正子・小林恭二 新潮社 2009年11月20日 発行 |
実にきれいな絵の写真。これだけでも本書を手にする価値がありそう。そうですか、正岡子規が俳人として再評価するまでは、どちらかというと絵師として認識されていたのですね。確かに銀閣寺の二部屋を飾っている襖絵には感服。それというのも、蕪村がもともと「中国の文人のあり方を肯定し、文人芸術に見られる、異なるジャンルに身を置くことを積極的に試みてい」た「総合芸術家」だからなんだそうです。
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本書を手にした理由は、カラー写真による俳画の美しさだけではなく、蕪村がたどったp7「蕪村放浪地図」を見て。あれま、関東で修行を積み、京都に上ったという経緯があったとは。まるで芭蕉の奥の細道をなぞるように出かけたという東北行きは、あくまでも関東で雌伏していた時期であったなんて、ついぞ存じませんでした。ちなみに、初めて蕪村と名乗ったのは宇都宮の地において。さらに関東の中でもその拠点を挙げると、パトロンの多かった下館・結城だったのですね。ふーむ。
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正岡子規が近代の見方で発見するまで、いったい江戸時代の俳人たちは蕪村の句をどうみていたのか? そんな疑問に答えてくれたのが、小林恭二氏の「俳人蕪村の実力」。いやあ、面白かった。短文なので、すぐに読めちゃいます。そのスリリングなこと。
芭蕉の句には「見た瞬間「これはすごい」と思わせるような句がない。」「俳論と俳句をセットにして制作している」のだそうです。したがって予備知識が必要であるのだと。対して一茶は天才。「どの句も独立しており、小難しい俳論など必要とせずに感銘を受けることができる。」つまり、俳句という作品だけで勝負。
しかも、その次の展開が新鮮でした。「わたしは一茶というのは、基本的にはリリシズムの詩人だと思っている。そのリリシズムの質は健やかで明るい。」「リリシズムのプリンス」だとも。「世に喧伝される」「妙にひねくれた句」があるが、それらは「あくまでもエピソードにすぎない」。なるほど。
で、最後に登場、蕪村。
p86
世に蕪村好きは多い。世上流布する蕪村のイメージを一言で集約すれば「天才」となろうか。
勿論蕪村は天才である。あの長い江戸時代、無数に現れた俳人のうちでベスト3に入るくらいだから、天才に決(ママ)っている。更に言えば世上良く知られた蕪村の名句「菜の花や月は東に日は西に」「春の海終日のたりのたりかな」あたりを読んで感銘を受けないのは、よほど鈍い人であろう。蕪村ほどどこから見ても名句といった感じの句を残した俳人はいない。
しかしながら、蕪村が真に「天才的」だったかと言われると、わたしは首を傾げる。
俳人蕪村は江戸期を通じてほぼ無名の存在だった。彼を「発見」したのは、正岡子規である。徹底した実証主義で蕪村を「発見」した正岡子規の偉大さはどれだけ誉めても誉めたりないが、あれだけの天才を認め得なかった江戸人はよほど莫迦の集まりだったのか。
結論から先に述べれば、江戸人が蕪村の偉大さを認識できなかったのは、無理からぬことだったとわたしは思う。その理由は何より蕪村の句にある。蕪村というと先に挙げたような句が真っ先に思い浮かぶのだが、蕪村の句業の中で、あのようなすさまじい名作はほんの一握りなのである。
新潮社サイト内に紹介あり。こちら。
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