植草さんについて知っていることを話そう 高平哲朗 晶文社 2005年1月30日 初版 |
いやあ面白い。こんなに面白い本が4年も前に出版されていたなんて。そういえば、この数年間は新刊に目が向いていなかったような。もっぱら明治大正昭和初期にばかり関心がいっていて、気づきませなんだ。きっかけはスクラップブックのシリーズ復刻だったとのこと。
本書成立の経緯というのがこれまた可笑し。1997年4月第1週の月曜日朝4時に始まったラジオ番組、それも東京を除く、ごく一部の地方で流されていたFMで、植草甚一氏をテーマにした番組が2年間も続いたのだそうです。
その番組の中で使ったという植草氏と関連のありそうな方々にインタビューしたテープをもとに原稿にしたのが中身だとのこと。なるほど、高平哲朗氏による聞き取りです。(対談とも違う)。
ここで、おやっと思ったのが、単なる植草氏へのオマージュではなく、60年代70年代に何をやっていたのか、どういう経緯で植草氏と知り合ったのか、などという内容だったということ。植草氏を中心において、その周辺、時代について浮かび上がらせようという主旨であったという点、なるほど。
目次
はじめに
東京の親代わり 中平穂積
昭和初期からつながる文人 矢吹申彦
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『話の特集』の植草さん 矢崎泰久
コラージュの名人でした 和田誠
編集者として最初の担当は 来生えつこ
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植草さんは表紙だった 平野甲賀
植草さんの集大成を作ろうよ 片岡義男
一緒に歩いたニューヨーク 瀬戸俊一
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「植草ですけど、原稿できました」 磯田秀人
ジャンルというカテゴリーはなかった 奥成達
文章からいろんな香りがしてきた 伊藤八十八
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『平凡パンチ』の植草さん 石川次郎
「イエナ」から、たかーい声が聞こえてきた 渡辺和博
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ほんとの自由人でした 渡辺貞夫
ジャズを語ればスピリットは植草さん 日野皓正
植草さんが語る前衛ジャズの魅力 山下洋輔
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植草さんと街を歩こう 内藤陳
俺たちの世代のシンボルなんだ タモリ
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読んだのはちょっと疑ってみたかった頃 野田秀樹
本当は先生って呼んでもいい 森田芳光
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前の世代のサブカルチャーには反発心が 山本容子
ぼくの中に芽生える植草流ミーハー感覚 大岡玲
ジャズに熱中し、植草さんをつまみ読みした頃 谷川賢作
座談会(あとがき) 植草さんのこと
津野海太郎/坪内祐三/高平哲朗
植草甚一年譜
こうして目次を見ると、タイトルの付け方が植草流。
大御所を差し置いて以外に面白かったのが、ナベゾこと渡辺和博氏。知らなかったけれど、雑誌『太陽』が1995年に「植草甚一特集」を組んだとき、晶文社に保管してあったノートやコラージュや予定表が入った段ボールを調べる仕事を依頼されたのが渡辺氏だったという。羨ましき限り。
この渡辺氏のインタビューでは、その段ボールの予定表にあったという編集者ごとの悪口やメモ類についての記述も可笑しかったけれど、妙に感心したのが後半のサブカルチャーに関する内容。
p213
「八〇年代になってサブカルチャーがメインになってしまったね」
ぼくがそう言うと、ナべゾはまじめな顔をして、
「それ、良かったのかな」
と言った。かつては舞台を作る時、テレビでは見られないものというコンセプトがあった。いまではテレビでは絶対無理だと言われていた「ワハハ本舗」のライヴ中継まで深夜テレビで見ることが出来る。品川のホテルでの「ワハハ本舗」のディナー・ショーが二万八千円にもかかわらず二時間で完売する時代なのだ。そのことに驚くナベゾに、
「そういうのがメインになってきちゃってるっていう恐い時代だよ」
「恐い時代ですね。じゃいま、例えばね、かつてのぼくみたいに上京した人はどうすればいいんですか。何を見ればいいの?」
「いまは上京感覚すらなくなっているんじゃない?」
「ああ、上京がないんだね、もう。上京がなくなって......ああ、情報化時代だもんな。じゃあ、感動なんかないんだね」
ぽくらは七〇年代に食えない中でサブカルチャーにドップリ浸かっていた。それが八〇年代になると、知らないうち食えるようになった。しかもサブカルチャーの延長線の中でである。
「じゃなに、食えないことやればいいのかな、いま、青少年は。取りあえず、ものをすごーく食えなさそうなことをやればいいんじゃない」
だが、いまの『ガロ』は成立している。だがいま成立してないような雑誌は、成立しないから出ないんだと思う。だから、『話の特集』はやっぱりもう出せないと思う。でも、矢崎さんのことだから、きっと出るだろうけど。山下洋輔さんを例に出すのは失礼だが、七〇年代にサブカルチャーの雑誌に登場していたのが、いま、一般誌に登場していてもなんら違和感がない。むしろ主流かもしれない。
「主流だもんね。それ、やっぱりさ、七〇年代に主流の人たちが元気なくなったのがいけないんじゃないの。変わっちゃったんだね。マズイね。よく考えるといちばんまずいと思うのは、ぼくらの働き場がどんどんまたなくなっちゃうっていうことかもしんない(笑)」
サブカルチャーが主流になると、サブカルチャーでなくなる。すると主流に対してのサブがまた生まれる。ナベゾの言うように、九〇年代を越えると、主流だったサブカルチャーの連中の働き場は、当然なくなるに違いない。
これですねえ。主流がなくなってしまったということ。
タイトルもいいですねえ。近藤書店のイエナへ続く急な階段の上から聞こえてくる植草氏のたかーい声。それもこれも今や幻。洋書の輸入なんぞ、ネットで簡便。イエナがなくなったのは何年前だったことか、その記憶すら薄らいでおりました。
タモリも面白し。例の四千枚近くあったという買い取ったジャスレコードについて触れたあと、高平氏がこう質問。
p276
植草さんのレコードコレクションを見て植草さんが見えてくるということはある?
「ないね(笑)。ばらばらな人で、レコードを大切にしない。それで、ほんとにこの人はジャズが好きなんだか、ちょっと疑いたくなる。ジャズ周辺の風俗とかいうのは好きだったんじゃないかって言うような(笑)。
驚いたなあ。なんでも、レコードは傷だらけだったとか。でも、なんだかそういうことって想像出来そうな気も。
なにしろ、本や雑誌だって、ためらいもなく切り取ってしまうようなところがあったし。それになによりも、タモリたちのいう「ジャズファン」というのは、オーディオ類にも高額なお金をかけた機材を取りそろえるようなマニアでしょう。けれども、植草氏にはそういった類の趣味はさらさらなかった気がします。それこそレコードなんぞというものは、音さえ聞くことができればかまわない、そんな感覚だったように思えて仕方なし。当時流行ったハイファイだとかJBLのスピーカーだとかはどうでもよかったのでしょう。それこそ竹針で聞いていた世代なのですから。例のハイカラだったというお姉さんが買ってきたものを。
あれほど池波正太郎氏と親しかったのに、どうして? というほど味覚に関して頓珍漢だったという証言とも一致。音を楽しむ、味わうという感覚が、違っていたのでしょう。
座談会によれば、どうしてタモリがまとめて4000枚のレコードを購入したのかという理由がふるってます。仲間の中で一番金持ちになっていたのがタモリだったから。コレクションの散逸を防ぐというよりも、少しでも奥様に経済的な援助をしようというみなさんの配慮でした。
最後に、「J・J」氏というニックネームの由来について。
p381
坪内 ところでお二人に確認したいんですけど、「J・J」ってどういう意味なんですか。「マヴォ」みたいに説明できないわけじゃないですよね。
津野 「シネマディクト」と「J・J」という言葉は、たしか『宝島』で使い始めたんですよ。終戦直後、アメリカ映画やフランス映画が新しく入ってきた時に、植草さんが「シネマディクトJ」と名乗った時期があったのね。だから、Jは甚一なんだろうけど、なんでJ・Jなんだよ、ということには、正確に答えられる人間はいません。(笑)
高平 ぼくもよく訊かれるんだけど、なんかゴロがいいじゃないですかって答えてる(爆笑)。
坪内氏が津野海太郎氏と高平哲郎氏に質問したということ自体がいい。そうして、お二人の答えた内容もたまりません。『宝島』の登場人物「ジョン・シルバー」説だとばかり思ってましたね。これまでに、いろいろな理由や意味づけを読んできた中で、今回のはなしが最高。
京都ホテルの娘さんだったのですねえ、梅公さんって。
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