[NO.862] 退屈な読書

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退屈な読書
高橋源一郎
朝日新聞社
1999年4月1日 第1刷発行

初出 「週刊朝日」1999・9・6~1998・4・24

 当時の社会時評的な事柄を扱った内容は、どうしても色あせてみえてしまうけれど、書評に関しては、そのほとんどが今も興味深く読めるもの多し。毎回のタイトルにも目をひくものあり。たとえば、「マルクスを知らない子どもたち」「「新解さん」の輪」「現代詩、短歌、俳句もあるでよ」「これが「日本文学」の生きる道」「「こころ」か「からだ」か、それが問題だ」「ちょー雪ってカンジ!」「晴れた日には、えの木ていで本を読もう」「いざとなりゃ本ぐらい読むわよ......たぶん」「人生のすべては母国語のなかにある」などなど。もっとも、現在では色あせてしまい、わからない読者も多いことでしょう。当時の流行ったテレビコマーシャルや流行歌などの風俗を知らなきゃ、わかりっこないものばかり。


p13 マルクスを知らない子どもたち
 昨日、どういうわけか小田切秀雄の『文学 近見と遠見 社会主義と文学、その他』(集英社)という評論集を読んでいた。
 残念ながら、ふだんは小田切秀雄氏のものは読まない。わたしたちの世代は、小田切氏たちオールド・マルキストたちのものを、あんなもの読めるかいなと思って遠ざけていたのである。わたしたちが高校生の当時、すでに「社会主義」なんて言葉の価値はそうとう下落していたので、古い意味での「社会主義」やそうとう手垢にまみれた恰好の「共産主義」にしがみついている(と思われた)小田切氏たちの考え方が理解できなかったのである。しかし、少なくとも当時あったのは、小田切氏たちを含め、「正しい」社会主義対「間違っている」社会主義、あるいは「正しい」マルクス理解対「間違っている」マルクス理解という対立だった。理解の正当性を争う、批評の戦争だったのである。時は流れ、「正しい」も「間違っている」もなくなっちゃった。「社会主義」や」マルクス」はただそれだけでお払い箱的状況である。
 その中で、ほんとうに当惑しながら小田切氏は「ほかならぬいま、社会主義のルネッサンスなどと言おうものなら、正気のさたではないと見られるような空気が世界的にひろがっていますが、それはそれで無理のない、当然のことでもあると思いながら、なおかつ、わたしはやはりそれだけじゃいけないと思う。わたしはかえっていまこそマルクスのルネッサンスが必要であり、社会主義のルネッサンスが必要だ、と考えています」と書くのである。老いの一徹だよと一蹴してはいけない。どんなものにも流行り廃りはある。あるけれども、それに乗ってスイスイ行くのは如何なものか。読みやすいものばかり読んでいると、本を齧る歯が退化しちゃうよ。



p71 これが「日本文学」の生きる道
 八〇年代以降、日本文学の中に一つの大きな新しい流れが出現した。その作品の特徴は、ざっというと、
① 単純で明澄な文章と静かな雰囲気
② 洒落たユーモラスな表現、その部分を強調するための傍点、あるいはふつうなら強調しないような箇所につけられた傍点
③ 意識的に誇張された比喩
④ 重要なポイントになると出てくる「言葉で説明することの不可能性」
⑤ 無関心ではないが、直接その問題に触れるのは恥ずかしいので、遠回しな表現で語られる社会問題
⑥ 主人公たちはたいへん優しい
⑦ 資本主義社会の文物が固有名詞で登場する
⑧ 身体、あるいは特定の物へのフェティッシュな愛情
 『いちげんさん』には①~⑧の特徴のすべてが見事に現れている。それは、『いちげんさん』の作者にとって書かれるべき「日本文学」とは、目の前にある「新しい流れ」であったということだ。だが、ほんとうに驚くべきなのは、この八〇年代以降の「新しい流れ」が「日本語で書く外国人作家の視点」にあまりにもぴったりと合っていたということなのではあるまいか?

※『いちげんさん』はデビット・ゾペティ著・集英社刊