[NO.831] 建築探偵、本を伐る

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建築探偵、本を伐る
藤森照信
晶文社
2001年2月10日 初版

「建築探偵団」の藤森照信氏が書く文章は面白かっただけに、その出自を自ら明かしてくれた本書を読み、納得。信州の田舎育ちとよく書かれていたけれども、「暗い大学時代にワラのように把んでからくも浮くことのできた恩ある文学」という下記「あとがき」から、その理由が理解できました。「はじめに」では、もっと面白可笑しく説明されていますが。
p15
はじめに
 一九六五年、信州の山里、夏の光景。隣りの新井村のじいさんが二人、一人は前で把手(とって)をにぎり、一人は後から押し、高部村へのゆるい坂道を荷車を引きながらあがってくる。前のじいさんは振り返るわけでもなく一人言のようにしゃべる。「そんちアメリカぁベトナムからぁ出てくずら、セカイにでてたで」。後のじいさんは、またかといった様子でめいわくそうに「アア......」。前のじいさんはかまわず語りつづけている。
 信州では囲炉裏ばたで『世界』が読まれている、という伝説は本当のことだった。少なくとも、私の生まれ育った近隣の村の場合は。
 そのまた隣りの中洲で岩波茂雄は生まれ、地元には岩波の全刊行物を納める風樹文庫が設けられていて、毎月一ぺん、私の家の二軒先の原田センセイが汽車に乗って岩波書店に出かけ、その月の刊行物を風呂敷に包んでしょって帰ってくる。私の坊主くさい名前も、若き日に岩波茂雄と語らって村を出奔しながら、志なかばで帰郷して〝神職″を継いだ三軒隣りの諏訪大社神長官守矢家七七代当主守矢真幸氏が命名してくれたもの。二人が若き日に一緒に出奔したことは、村には語り伝えられてはおらず、『岩波茂雄伝』小泉信三著を後に読んで知った。
 今とちがい、高度成長前、都会と山国の農村の落差はすごく、日々の光景はちがう国みたいで、思い起こせば農村は八〇パーセントくらい江戸時代だったのだが、そんななかで、さいわい戸数七〇戸ほどのわが高部の村は活字文化の香りがほのかに身辺に感じられるような村ではあった。
 そういう村で育ち、子供の時から本に親しみ、というぐあいにはいかない。父が学校の先生だったから家に本の類は多かったのだが、活字を読むのは好きではなく、姉の画集や父が職場で共同講読していて家に持ち帰る『文牽春秋』 のグラビアや『漫画読本』のようなもののはうがまだマシだった。本よりなにより野山のほうがずっとずっと刺激的で、おもしろかったのだ。

 特異な環境と言っていいでしょう。囲炉裏ばたで『世界』が読まれ、さらに私の家の二軒先の原田センセイが汽車に乗って岩波書店に出かけ、その月の刊行物を風呂敷に包んでしょって帰ってくる。私の坊主くさい名前も、若き日に岩波茂雄と語らって村を出奔しながら、志なかばで帰郷して〝神職″を継いだ三軒隣りの諏訪大社神長官守矢家七七代当主守矢真幸氏が命名してくれたもの。などという環境は、そうはあるものではないはず。大学時代に文学へと傾斜していったことと、こうした環境で育ったこととは、なんらかの関連がありそうです。

 高校生になっても読書とは縁遠かった藤森氏のエピソードも、その人柄が伺われます。
p16
 文芸部長で小説を書いていて新人賞の候補になっていたT君に、「文学なんてオンナミテエダナ」と言ったらおこりだし、なぜか柔道でけりをつけることになり、道場の床に叩きつけて勝った。

 そんな著者が大学に入るなり文学に耽溺。最初に読んだのが文庫版の中島敦。その先が面白し。いきなり文治堂版の全集読破。行く先は吉本、高橋、埴谷。
p18
 昼夜のひっくりかえった文学びたりの日を送りながら、しかし、自分で小説や詩を書こうとはついに思わなかった。小説家や詩人の才能が自分にもあったらなア、などという気持ちにもならなかった。それは自分の生来の体質とは別のものであると、おそらく本能的に察知していたんだろう。
 もし六年間の"暗い青春の読書"がなければ、その後、建築史の道に進んで文を書くことも、さらに書評することもなかったに違いない。

いい話です。

あとがき
 自分が本を読んだり書いたりするようなナンジャクな人間になるとは思わなかったし、書評をし、それを一冊にまとめるようになるなんてもっと思わなかった。
 書評をするようになったのは、『週刊朝日』に建築探偵モノを数年間連載したのが縁で、連載終了後、書評ページへの参加を言われた。丸谷才一、秋山駿さんなどが書評を担当しており、プロの文学者をこわいもの見たきで参加したのだった。
 二週に一ペん、銀座のマキシムなどに集まり、ずらり並べられたその間の全新刊書から好きなだけ取り、後は楽しく飲食談笑して車で帰る。一度なんか、閉店後の八重洲ブックセンターで会が開かれ、地下から最上階まで歩いて、自分の欲しいのを自由に抜いたこともある。
 今はもう考えられないぜいたくな書評の会を体験したのだが、伊東光晴さんが言うに、「昔はこんなもんじゃなかった、もっとすごかった」。
『過刊朝日』の書評の会は心に残るところがあり、その後もメソバーは集まり、楽しく飲食談笑する。ただし自前で。
『週刊朝日』が書評メソバー制をやめた後、一、二年してから、毎日新聞の書評欄への執筆を頼まれ、これは進んで引き受けた。生来、本や活字よりは絵や図、絵や図よりは土や木や石のほうが体質に合っており、『週刊朝日』をやめた後、どんどん本から遠ざかり、これはまずいと思っていたからだ。
 毎日新聞の書評は今も続けているが、取り上げるのは、暗い大学時代にワラのように把んでからくも浮くことのできた恩ある文学ではなくて、絵や図や土や木や石に近いもの、その延長で入ってゆけるものが多い。そういうズレた方面への目配りが、私の書評の特徴と言えば言えるかもしれない。
 編集者の中川六平さんが、突然やってきて、あなたに関心あるといい、この本が出来たのだった。
 二〇〇〇年十二月七日
                  藤森照信



【初出について】
Ⅰ 『週刊朝日』90年4月27日号~93年8月13日・20日号
Ⅱ 90年/91年/92年/93年=『週刊朝日』
  94年/『エミンとは何か』=毎日新聞、『日本のかたち・アジアのカタチ』、『やわらかいものへの視点』=『週刊朝日』
  95年/『身体の零度』=『週刊朝日』、それ以外は毎日新聞
  96年/97年/98年/99年/2000年=毎日新聞
Ⅲ 東京新聞 97年6月1日~同15日

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p142
一部分の深い追求に日を過ごし、全体の流れと意味を大きく把(とら)まえてまとめることをおこたっている間に......
 久々に目にした言い回し、「とらまえる」。実際にはルビが振られています。
 「つかまえる」&「とらえる」の合体したカタチなんでしょうか? 小学校時代の校長先生、この語が口癖で、あるとき友人にそのことを指摘されたものだから、朝礼のたびに可笑しくて笑いを押さえるのに大変でした。