[NO.819] 図書館逍遙

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図書館逍遙
小田光雄
発行所 有限会社 編書房
発売元 株式会社 星雲社
2001年9月15日 初版第1刷

 付けた付箋紙が18枚。図書館にまつわる話題、エピソード満載。本が好きで図書館が好きであれば手に取りたくなるタイトルでしょう。

 途中、おやっと思ったのが「郊外」に言及した箇所が度々出て来たこと。すると著者小田光雄氏の著書に『「郊外」の誕生と死』なる本を発見。こりゃあ読まずばなるまい。

 秀逸だったのが「2 ある図書館長の死」。中島河太郎氏への追悼文でした。推理小説界からも文学界からも追悼文が出なかったといいます。
 そして、九九年四月会館した日本唯一のミステリ専門図書館であるミステリー文学資料館の初代館長であり、その蔵書はご本人が収集した三万冊を中心にしていると紹介した後、次のように続けます。
 図書館界から中島河太郎に対する追悼の言葉はあっただろうか。
 冒頭で紹介されている紅野敏郎氏『中島河太郎氏と正宗白鳥』(『文学界』九九・六)を読みたくなりました。

p18
幸田露伴や樋口一葉にとって、湯島聖堂の帝国図書館の存在とは何であったのか。

p43
そうした謎を秘めた円本を題材にして、図書館を舞台としたミステリが、紀田順一郎の『第三閲覧室』(新潮社)である。

p50
この『明治少年回顧』の一節に、「大橋図書館」がある。それは次のような書き出しである。「わたしは小学校尋常科の生徒の時分、よく大橋図書館に行つた」。そして図書カードを繰り、書名を書いて貸し出し係に持っていき、自分の名前がよばれるのを待つ。借りると、閲覧室の空席をみつけ、そこを自分の場所にして本を読んで一日をすごす。昼の食堂の風景、ジャム付き食パンとゆで小豆。そのことを川上澄生は何度も小学校の日記に書いたという。図書館と少年の出会いの美しい物語がここにある。大橋図書館は当時開館したばかりだ。川上澄生のような少年が、大橋図書館にはたくさんいたのだろう。同時代の芥川龍之介もそのひとりだった。自伝的作品『大導寺信輔の半生』(岩波文庫)に次のような一節がある。「彼は――十二歳の小学生は弁当やノオト・ブックを小脇にしたまま、大橋図書館へ通ふ為何度もこの通りを往復した」。

p126
 大藪春彦氏は四国の高校を卒業後、プロテスタント系神学校に進学。五五年、二十歳のとき、その神学校図書館でアメリカのハメット、チャンドラーのペーパーバックに出会ったのだとも。神学校の図書館とハードボイルドの奇妙な組み合わせ、と表現しています。
 さらに続けて、最後にこう結びます。
 同時代に同学年の大江健三郎はCIE図書館でマーク・トウェインを読んでいた。同じく同学年で四九年にカトリック修道会の施設に入っていた井上ひさしはその図書室で何を読んでいたであろうか。

p128
現代の作家のポートレートで、作家の書棚が写っていることはあっても、書庫にいる写真はほとんどみることができなくなった。しかしかつてはよく作家の書庫にいる写真が撮られ、個人全集にはかならず一枚そうした風景が収録されていた。
 この文章を読み、ハッとさせられました。そのとおりです。書庫にあふれかえる本の山の中で撮影された作家の写真。ありふれた光景でした。それが今や。

p186
 70年代に出版されたけれど流行らなかったスティーブン・キングが80年代に入ると売れ出した理由が考察されます。
 その理由として、八〇年代に日本が郊外社会へと変貌したことをあげることができる。七〇年代に大都市近郊に誕生した郊外は、八〇年代の過程で、全国至るところに波及していった。郊外人口の増加と連動して、郊外店を猛烈な勢いで展開したロードサイドビジネスの増殖は、またたく間に均一的、画一的な郊外消費社会の風景を出現させた。以下略
 出ました。郊外というキーワード。

p204
したがって、人見東明はその作品の位相から考えて、近代詩史においてはマイナー・ポエットであり、忘れられた詩人に属しているといっていい。人見東明の名前は、各種の日本文学事典にかならず掲載されているが、それは詩人というよりも、後半生の昭和女子大学の創立者、近代文庫の初代館長、「近代文学研究叢書」の編集者、出版者としての業績によっているように思われる。

【追記】
書評家 岡崎武志さんが、[NO.1328] 蔵書の苦しみ で、本書を挙げています。