百年の誤読 岡野宏文・豊崎由美 ぴあ 2004年11月5日 初版発行 |
読了したときには百年が経過したような気分になり、どっと疲れて安堵のため息。掛け合い漫才がなんとも愉快。
ほとんどの作家を批判している中、少数はほめています。それが目をひくのです。
たとえば庄司薫氏の『赤頭巾ちゃん気をつけて』。
p246
岡野 途中略 実は、この小説大好きなんですよ僕。普通の青春小説って世界にバツをつけていく話だと思うんだ。たとえばサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』なんかも、ホールデン少年が世の中やまわりの人物に、あれもダメ、これもインチキって、とめどなくバツを付けていく小説の典型。だけど、薫くんは自分にどんどんバツをつけていく代わりに、世界にマルをつけようと頑張るわけ。で、物語の最後のほうで、それでも世界への憎悪に押し潰されて、今にもバツをつけそうになるんだけど、ある少女と出会って、そのエピソードを由美に話すことでかろうじてマルの側に踏みとどまる。その展開はかなり好きだな。
豊崎 わたしも薫くんのキャラはかなり好みです。この人ってみんなが幸福になるには世界をどうすればいいかなんて、ベンサムの「最大多数の最大幸福」みたいなことを考えてる、思い上がりもはなはだしい高校生なんだけど、その理想主義的な背伸びの仕方、嫌いじゃないなあ。
岡野 知性とは〈すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、(略)やさしさを支える限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないか〉と考え、他人の言葉じゃなくて自分の言葉でそれを育て、ほんのささいなことでも自分の頭で考え、決定できるようになるまでは全部保留にしておくってことを、薫くんは表明してるじゃないか。(以下略)
豊崎 あと、この作品を今読み返すと、庄司薫という作家が"炭坑のカナリヤ"だったということがわかります。知性じゃなく、狂気の時代がくるって予言するところがあるでしょ。弱味とか欠点とか劣等感をどぎつく汚くオーバーに拡大表現するものに人気が集まるって。刺激の絶対値が大きいものがウケる時代がくるって。まさに、今のベストセラーの大半がそうですもんね。
途中略
豊崎 ところが、サリンジャーは今でも読み継がれてるのに、庄司薫をちゃんと語る人はほとんどいない。それって、かなり不自然。庄司さんがこういう文体を創出したからこそ、八〇年代に村上春樹が登場できたと思うんですけどねえ。時代を伴走する優れた批評家を持てなかったのが、庄司薫の悲劇だったような気がします。
他にほめているのがイザヤ・ベンダサン(山本七平氏)の『日本人とユダヤ人』。手放しに近いほめっぷり。
p311では『ノルウェイの森』に謝罪したいとして、豊崎氏が述べています。
岡野 この小説の最後の一文〈僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた〉をそっくり真似た片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』を筆頭に、その後、有象無象と現れた春樹のエピゴーネン。それらを読んだ今、この小説を読み返すと、いかによく書けているかがわかる。
豊崎 八八年て、今と比べればまだよかったのかも。柳美里も辻仁成も片山恭一もYoshiもいない世界(ため息)。
(途中略)
岡野 こういうことじゃないかな。トヨザキくんは春樹がマスターの銀座の小さな酒場の常連だったわけよ。ところが、だんだん客が増え出して、六本木ヒルズみたいなとこに洒落た支店を出しちゃう。なんだよ、と怒ってたのが八八年のトヨザキくんだったんだな。ところが、おねえちゃんで繁盛してるヒルズ店とは別に、銀座の古い店のほうの味は落ちる気配がない。あまつさえ、春樹の店の雰囲気だけを真似した安くてまずい店が林立。
豊崎 そんな新規店に懲りたわたしが、試しにヒルズ店に行ってみると、想像以上に美味しいじゃん。やっぱ、春樹の店はいいよねえ、そんな感じ? 当たってるかも(笑)。
あれまと思ったのが「真逆」という語彙を使っているところ。数カ所発見。たとえば、p280L2の豊崎氏。興醒め。
巻末、「参考文献」、「ことがら索引」「タイトル索引」「人名索引」が詳細に掲載されています。
本書についての書評は数あるでしょうが、わけても松岡正剛さんの『千夜千冊』の1511夜(読相篇)に取り上げられたのが秀逸でした。リンク、こちら
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