[NO.685] デジタルを哲学する/時代のテンポに翻弄される〈私〉/PHP新書220

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デジタルを哲学する/時代のテンポに翻弄される〈私〉/PHP新書220
黒崎政男
PHP研究所
2002年9月27日 第1版第1刷

 2002年という出版年を考慮に入れても面白い。一番惹かれたのが1995年10月4日読売新聞夕刊に表題「ライカとコンピュータ」で掲載されたという 文章。黒崎氏の愛用するのは1935年製ライカDⅢだそうです。氏の心象はこのクラシックカメラと最新コンピュータとの間を揺れ動いているといいます。
 以前、『哲学者クロサキのMS-DOSは思考の道具だ』(アスキー出版局)の中で、真空管アンプ製作への愛着が紹介されていたことを思い出します。サブタイトル「ヒトはなぜモノに愛着を覚えるのか?」もいいですねえ。

p163
◆映像が現実を変えた
書評『「2001年宇宙の旅」講義』
(巽孝之、平凡社新書)
 二十一世紀を迎えた私たちは、(未来)に人類の輝かしい姿を夢想するだろうか。私たちほいつの間にか、未来に希望や期待を持つことをやめた。だが二〇〇一年という年が、希望と期待で待ちわびられた(未来)であった時代がかって存在していたのである。
 一九六八年に公開され、現代SF史上のみならず現代映画史上においても最大の金字塔と言える映画『2001年宇宙の旅』は、(未来)こそが人々の殺到す べき黄金郷であった時代の作品であり、ニーチェ的永劫(えいごう)回帰の果てに、悲劇とも喜劇ともつかない人類の黙示録的新生を占った作品である。
 本書はこの名作に、二段階の方法で切り込む。まず第一に、アーサー・C・クラークの小説版とS・キューブリックの映画版との徹底的比較。『2001年』 を象徴するAI的頭脳のHALは、クラーク案では「ソクラテス」という名の二足歩行ロボットであり、また、形而上学的存在のモノリスも、クラーク案では、 陳腐なSF地球侵略物語のように、無数、空から降ってくるB級発想だった。クラーク案が通っていたら、本当に凡庸な映画になっていただろう。
 第二に本書は、二十世紀末の電脳文化勃興以後の(今日)から、この作品を独自に読み直す。モノリスは、死者を再生させる電脳空間かつコンピュータウィル スと解釈できるし、難解なラストシーンは、麻薬幻想ではなく、ボーマン船長の生体情報をカットアップ、リミックス、サンプリングするビデオテープ的メタ ファーなのだと読める。
 本書が成功しているのは「『2001年』がどのような未来予測をしていたのかではなく、『2001年』という映像がいかにして私たちの現実を変えたの か」という卓越した視点に貫かれているからである。今日の現実が、『2001年』の予測通りになったとしたら、それは予測が的中したのではなく、むしろ現 実のほうが、映画の強烈なイメージを模倣し、映画の予言に合わせて時代を作ってきたからである。深い愛着に裏打ちされた著者の鋭利な分析は実に見事であ る。


 ここで後半に述べている
本書が成功しているのは「『2001年』が どのような未来予測をしていたのかではなく、『2001年』という映像がいかにして私たちの現実を変えたのか」という卓越した視点に貫かれているからであ る。今日の現実が、『2001年』の予測通りになったとしたら、それは予測が的中したのではなく、むしろ現実のほうが、映画の強烈なイメージを模倣し、映 画の予言に合わせて時代を作ってきたからである。深い愛着に裏打ちされた著者の鋭利な分析は実に見事である。
というところは、いかにも黒崎政男氏らしい考え方です。巽孝之著『「2001年宇宙の旅」講義』は、出版当時に書評等で話題になり読みましたが、黒崎氏が述べているような視点は得られなかった記憶があります。