悪魔のいない文学/中国の小説と絵画/朝日選書82 中野美代子 朝日新聞社 1977年3月20日 第1刷発行 1994年6月30日 第2刷発行 |
あとがきに触れていますが、澁澤龍彦氏の中国版みたい。リアルタイムで読みたかったものです。
目次
悪魔のいない文学 中国近代リアリズム批判
衣裳としての思想 中国人における肉体不在
地平線の論理 中国人と風景および風景画
老舎 "幽黙(ユーモア)から正統(まじめ)へ"の道
諷刺からユーモアまで 中国人の場合
中国近代読者論 その成立・変遷・崩壊
p217
あとがき
悪魔についてのヨーロッパの書物を、私のいわば一種の悪趣味からひろい読みしていると、ふと私の専攻領域に思念が立ちかえり、文学の永い歴史の中につい に悪魔を登場させなかった中国人のまじめさ、ひたむきな合理主義に改めて感慨をおぼえることがしばしばであった。悪魔という否定的な存在を軸として中国の 文学を考えてみると、よろずに肯定的な存在を軸としないではいられない中国人の文化一般の、或る種の「否定的」な面がよく見えるように思われた。
悪魔がいないから、ユートピア思想もない、美術史に裸体画が登場しない、風景画が悉く規範的で地平線はついぞ描かれない、などと思索をひろげていけば、これらの現象は、小説史の上でのリアリズムの問題などとまことによく照応するのである。
本書前半の三篇のエッセイは、いずれもこのような思索の結果である。中国の小説と絵画とを結びつけて、まだ書きつづける予定であるが、いまはとりあえず、私が目下最も興味をいだいている思索の方法を提示する意味で、ここに一本として上梓する次第である。
「悪魔のいない文学」とは、中国の文学そして時には美術の特質を概括するに言い得て妙とひそかに自負しているが、この題名、実は私の創見でなく、同じ題名 の冒頭のエッセイにしるしたごとく、澁澤龍彦氏の著書『悪魔のいる文学史』(一九七二年、中央公論社刊)の書名をひっくりかえしたものにすぎない。さるに ても、ヨーロッパにおける悪魔の存在と、中国における悪魔の非在とは、それだけで興味をそそる思想史上の命題ではあるまいか。
後半の三第のエッセイは、前露のそれを補足するために収めた。そのうちで『老舎――〝幽黙から正経へ″の道』は、他の五篇にくらべて執筆年代がやや古 く、論旨もいささか離れているが、文化大革命に際して紅衛兵の激烈をきわめた批判、つまりいかにも現代中国的な「魔女狩り」のために自殺に追いこまれた老 舎を記念する意味でとくに収めた。私がこのエッセイを脱稿したのは一九六六年五月、オーストラリア滞在中であったが、その時はもちろん、始ったばかりの文 化大革命については何も知らず、まして老合の自殺などは予想だにしなかった。いま思えば、老舎を自殺に追いこんだ状況は、悪魔のいない中国のいわば逆の悲 劇であると考えられる。
本書収録の六篇を執筆している期間に、中国文学関係の著書としては、エッセイ集『カニバリズム論』(一九七五年、潮出版社刊。一九七二年刊の『迷宮とし ての人間』の改題増補版)及び『中国人の思考様式!小説の世界から』(一九七四年、講談社現代新書)の二冊を上梓した。本書に収めた六篇は、いろいろな点 で、この二冊の著書の基礎ともなり、又展開ともなっている。他にも、関連のエッセイはいく篇か書いているが、構成上の都合で本書には収めなかった。
以下略
コメント