[NO.666] 文庫本を狙え!

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文庫本を狙え!
坪内祐三
晶文社
2000年11月20日 初版

 再読であっても読みふけってしまうというのは、いかに日頃の読みが浅いかという証明でしょう。
 下記の文章が書かれたのは10年前。ということは庄司薫氏をはじめ、みなさん71歳ということになります。そういえば阿久悠が亡くなって芸能ニュースで取り上げられたのは去年のこと。
 目の付け所が面白いですねえ。山根一眞氏の発明に、年表をスケールにして人物の生没年を比較するというものがありました。あるいは仏文学者篠沢秀夫氏の発想にも、フランス文学史を考える上で同じように人物の生没年を比較するというものも。面白い視点です。

p144
つげ義春『無能の人・日の戯れ』   新潮文庫
 南伸坊の最新エッセイ集『ごほんつぶがついてます』(晶文社)に収められたある文章に目を通していたら、ここに私の同類がいると知り、ちょっとにんまりしてしまった。
 南氏は、誰と誰とが同い年かを調べるのが大好きで、沖田総司とニーチェ、樋口一葉とモンドリアン、川端康成とアル・カポネ、岡本太郎とロナルド・レーガ ン、渥美清とチェ・ゲバラ、勝新太郎とゴルバチョフ、長嶋茂雄とデニス・ホッパー、そして王貞治とジョン・レノンが同い年などということを「いつまで書いててもあきないのだ」と語っている。
 私も、同い年ネタが大好きだ。雑誌『鳩よ!』で私はここ数年「慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り」と題して夏目漱石、正岡子規、尾崎紅葉、幸田露伴、斎藤 緑雨、南方熊楠、宮武外骨の七人を合わせた評伝を書き続けているけれど、何も近代日本文学史の書き換えだとか、そんな大それたことを考えているわけではな く、単にこの七人のクセ者たちが同い年であるという事実に引かれて、彼らの成長の歩みを眺め比べているだけなのだ。
 実際、同い年の作家や芸術家、有名人たちを何人か並べて眺めると、個別の作家論や人物論ではつかみ取ることが出来ない彼らの個性が、時に立ち上がってくる。
 去年私はまたその一例を発見した。しかも、これが中々すごい。
 きっかけは、たしか、庄司薫。
 庄司薫って言えば、タートル・ネック姿の写真がすぐに目に浮び、いつまでも若く見えるけれど、一九三七年生まれだから、還暦をむかえるわけか。それから、もう一人の東海林。さだおの方も同い年のはずだから、やはり還暦。赤瀬川原平もそうだ。
 などと面白がって、一九三七年生まれの人びとを、取り敢えずは男に絞って、さらに調べて行くと。
 伊東四朗、山藤章二、別役実、松下竜一、永島慎二、高橋睦郎、小林旭、阿久悠、緒形拳といった人びとがいた。
 どうです。気がついたでしょう。皆、独立独歩、インデペンデントな人たちばかりでしょう。加山雄三も同年だが、彼だってこの人たちの中に混ぜるとインデペンデントに見えるから不思議。
そうそう、本誌に「お言葉ですが...」を連載中の高島俊男も一九三七年生まれのはずだ。
 しかし、一九三七年生まれの独立独歩者たちの中でも、ベスト1を選べば、この人。
 つげ義春である。
 そのつげ義春の代表作の一つ、竹中直人の映画化でも知られる『無能の人』が文庫本に入った。
 私小説ならぬ私漫画であるこの作品の主人公の「無能の人」は、要するに、究極の独立独歩者、(というよりは、正確には、それを夢見る人)だ。
 文庫化によってこの作品を再読し、巻末の吉本隆明の解説にある、
〈「石を売る人」、「渡し場の番人」、「墓掃除人」、「骨董品屋」、「カメラの中古品屋」、「古本屋」などがいざ行き詰まってマンガでたべられなくなった ら主人公の頭に思いうかぶ職業なのだ。ひとと口をきくのも、ほんとはおっくうだし、関わりを作るのも物おじする)
 という一節を目にした私は、改めて、先に名前を挙げた一九三七年生まれの人の何人かの顔を思い浮べている。            (98・3・26)